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【小説:腹黒い11人の女】(14)「男でなければ埋められない穴、男など何の役にも立たない夜」

 純の男の話は、店の中では定番の話題だ。純はいつも男を追いかけているが、大抵はすぐに別れてまたすぐに次の男と付き合っている。もう二年も恋人がいない私からしてみれば、呆れるくらいのフットワークの良さだ。

 年が明けて一月。水商売はとかく年末が忙しい。さすがの純もその忙しさのせいかしばらく男の話をしなかった。だが、慌しさがようやくひと段落した今でも、相変わらず純から男の話が出てこなかった。いつもなら浮気だ、二股だ、合コンだ、間違えて彼氏の友達とやっちゃっただの、純は何かしら言ってくる。だが、ここ最近の純は待機中の暇な時間、一人で店の隅で呆けるばかりだった。一体、どうしたというのだろう。店の女達は、そんな風に純の様子を訝しく思っていた。
 
 純の気持ちを聞き出す役回りが、私に巡ってきたのは、つい先日の事だった。

 その頃、純の酒量は格段に増えていた。席に着いていきなりテキーラを飲み干す事が頻繁にあり、夜十二時を回る前にべろべろになっている事もしょっちゅうだった。その日も、純は指名客の席で酔い潰れていた。酔った純を見て客は調子に乗り、店が終わった後に何処か行こうとしきりに誘っていた。

 普段ならアフターぐらい、各自好きにすればいい。だが、その客は潰れた純に下心丸出しだった。全く女の弱味に付け込むなど、自分を自らふにゃちん野郎だと言っているようなものだ。そう思いながら、私は純の客の連れに気に入られるように努めた。その結果、純と私と純の客ともう一人の四人で、アフターをする事になった。

 私は、普段、アフターは店の近所の居酒屋で、なるべく一時間以内に切り上げるようにしていた。だが、この日は純が酔っていたせいで、上手く帰る事が出来なかった。幸いにも私の事を気に入った男は話がわかる人間で「純が酔ってるから今日はお開きにしていい?」と聞くと「そうだね、仕方ないね。でも、ちえりちゃんと今度二人で会いたいな」と言って、帰りのタクシー代をくれた。

「そうですね、また」

 お店でお会いしましょう、という言葉を省略したいつものキャバクラ嬢の台詞を吐いて、私はふらついている純をタクシーに押し込んだ。
 
 純の家は、世田谷の住宅街にあるロフト付のワンルームだった。純はここに三年住んでいて、その間に連れ込んだ男の数は五十人を越えるそうだ。何だか部屋にいろんな念がこもっていそうだ。そう思いながら、私は酔い過ぎてはしごを登れない純の為にロフトからマットレスを下ろして寝る準備をした。

 純はピアスとネックレスを外し、よろめきながらもTシャツとスウェットパンツに着替えて布団にすぐさま転がった。しかし、また起き上がり「水……」と呟きながら、冷蔵庫まで這っていこうとする。私は呆れながら純にペットボトルの水を渡した。

 時刻は、午前五時を回っていた。カーテンの隙間から、夜が白んでいるのが見えた。純の部屋は一階にあった。目の前の壁に隔てられて、空は微かにしか見えなかった。カーテンの隙間から細く明かりが射していた。

 純がきちんと閉めなかったクローゼットの扉がゆらゆら揺れていた。私は扉を閉めようと立ち上がった。すると、足元の方が、握りこぶし二つ分くらいの大きさで割れていた。私は、まだ酔いながら呻いている純に言った。

「何、これ。なんで壊れてるの」

「男」

 純の答えに、私は固まった。聞いてはいけない事だったかもしれない。そう思いつつも同時に、腑に落ちた気持ちだった。純の最近の荒れ方はやはり男絡みだったのだ。私は無言で純の返答を待った。

「男だよ、この前に別れた男がやったの。もう敷金返ってこないじゃんって感じだよ」

 純が、仰向けに布団に寝転がったまま、うわ言のように言った。

「やっぱり、荒れてたの、そのせい?」

 私は、そっと聞いた。純が、私から顔を背けながら静かに頷いた。

「ていうか。そのせいだけじゃなくて」

「うん」

「子ども堕ろした。それで」

 あぁ、と小さく息を吐きながら、私はクローゼットの扉を閉めて純の枕元に座った。純は寝転がったまま手を交差させて顔の上に置き、浅い呼吸を繰り返していた。私は、純の髪をそっと撫でた。純が、話し出した。

「別れ話が出て、それからだよ。生理来なくて病院行って。なんでこのタイミングでって感じだよ」

「お金は」

 小さく言った。純が、端的に答えた。

「自分で出した」

 聞いていいものか迷った。けれど、私はそれでも尋ねた。

「相手は」

「言ってない。だって、もう別れるって決まってて。言えないよ。万が一、じゃあ、やり直そうとか結婚しようなんてなっても嫌だし」

 悩んだ。躊躇った。けれど、私はこの言葉を口に出さずにはいられなかった。

「でも」

 純が、私のその言葉を打ち消すように言った。

「嫌なの。どうしても嫌なの。子ども出来たから仕方なく、なんて絶対に嫌。私、馬鹿だけど、客には平気で嘘を吐くけど、自分の気持ちには嘘はつけない。好きな気持ちがなくなったら男とは別れるの」

 交差させた腕の間から布団へと涙が落ちていた。純が、早口に続けた。

「だって、そうじゃなきゃ、今まで何だったのって話だよ。私、今まで好きだって思った男と以外は寝た事ない。私、男の事しか考えていない馬鹿だよ。やりまんだよ。どうしようもないよ。だけど、だからこそ、それは譲れないの。好きじゃない男と無理矢理に一緒にいるなんて出来ないの」

 私は、純の髪を静かに撫でた。純が、嗚咽の隙間から言った。

「子どもには悪いけど。本当に悪いけど」

 狭いワンルームに純の泣き声が響いていた。私はそれを聞きながら、ひたすらに純の髪を撫でていた。

 「このままじゃ鼻詰まって死ぬ」。三十分程経った後、純は起き上がり、ティッシュで豪快に鼻をかんだ。既に夜は明け切っていて、何処からか洗濯機の音が響いていた、私は、純の為にごみ箱を近くに引き寄せた。

 ティッシュをごみ箱に捨てながら、純がぽつりと呟いた。

「男に媚売って作った金を子ども堕ろす為に使って」

 そこまで言って純は唇を噛み、目を閉じた。まつ毛の端が震えていた。私は純の肩に手を置いた。純が、言った。

「何やってるんだろ、私」

そう言って、純はがくりと頭を垂れた。私は純の背後に移動した。心なしか痩せた背中が震えていた。首の伸びたTシャツは随分と大きいサイズだった。きっと男と共有していたものだろう。私は純の両肩に手を置いて、言った。

「私、あんたがやりまんだろうとビッチだろうと何でもいいけど」

「うん」

 純が、小さく頷いた。

「友達の男に手を出す訳じゃなければ、他人の男を捕っても、不倫しても、やりたきゃ3Pだろうが4Pだろうがすればいいけど」

「うん」

 また、純が鼻声になった。けれど、私は話を続けた。

「でも、あんたが健康じゃなきゃ嫌だ。あんたが元気じゃなきゃ嫌だよ」

「うん。ごめん」

「謝らなくていいけど。一番辛いのは純だってわかってるけど」

「うん」

 それから、純はしばらくうな垂れていた。私は立ち上がり、お湯を沸かしてコーヒーを入れた。冷蔵庫を開けたがミルクはなかった。電熱器のキッチンの流しの横に砂糖の袋がそのまま置いてあった。私は食器かごの中にあったカレースプーンを使ってコーヒーに砂糖を入れた。

 純の前に、コーヒーを置いた。純が、ようやく少し笑った。けれど、視線はまだ遠くを見詰めたままだった。

 純が、コーヒーを一口飲み、口を開いた。

「大好きだった。毎日、店が終わるの待ち遠しくてさ。客に着いてる間も待ちきれなくてトイレでメールしてた。それでトイレのドア叩かれたりして」
「私もそれやったな。『うんこかよ』って言った気がする」
「うんこじゃなかったよ。ラブだよ、ラブ」
「こっちが必死で客の相手してるのに何やってんだよ」
「盛り上がってたんだよ」

 純が、クローゼットの扉の傷を見た。その顔は、不思議と懐かしそうだった。私は純の言葉をただ黙って聞いた。

「どんなに店で嫌な事があっても、彼が家で待っててくれたら平気だった。下手糞なのにご飯とか作ってくれててさ。家賃を出してたのは私だったけど、そんなの別にどうでもよかった。寝る前にいつも頭を撫でてくれたから。ありがとなって言ってくれたから」

 そう言うと、純は小さく笑った。クローゼットの傷を見ていた時のような、優しい表情だった。その話を聞いていると、まだここにその男の気配が残っているような気がした。そう言えば、まだ洗面所に歯ブラシが二つあった。台所にも一人では不要な量の食器があった。そうか、とようやく私は腑に落ちた。毎晩この部屋に一人で戻っていた純の気持ちがわかった気がした。

 純が、話を続けた。

「でも最近、喧嘩ばっかりで。私の電話が鳴ると『また客?』とか言ったりして。同伴で客と会うのも嫌そうな顔して。店に行く一時間前に待ちあわせてご飯食べるだけなのに、ホテル行ってるんじゃないかって疑われたりして」

 純が、そこで言葉を切り、天井を見上げた。

「好きなんだけど、大好きなんだけど、やっぱり疲れて、好きな気持ちが磨り減っちゃった」

 うん、と私は頷いた。純の肩をさすりながら、うん、ともう一度呟いた。純が、自嘲するように笑った。けれど、その笑いはいつの間にか嗚咽にすり変わっていた。

「最後のつもりでやったんだけどさ、それが命中って本当ついてないよね。私、やっぱり馬鹿だね。本当、馬鹿だよ」

 純は苦しげに喘ぎながらそう言った。食いしばった唇の隙間からしゃくり上げる声が響いていた。そして、純は体を震わせながら、振り絞るようにこう言った。

「私、一人になりたくないよ」

それから、純は体を丸めて泣いた。
 
 私がいる、店の女達がいる。私は純にそう言いたかった。けれど、その言葉を口に出す事は出来なかった。
 
 飲みきれない程のシャンペンを数本頼み、会計の値段を一気に吊り上げる。「帰る」と言った客を「あと十分だけ」と引き止め、その間にドリンクを数杯頼むのも日常茶飯事だ。私の携帯のグループ名『客』には数百件のアドレスがある。もちろん、その状態で客の顔と名前が一致する訳がない。だから、私はいつも客の名前の後ろに(ハゲ)だの(カエル顔)だの(幸薄そう)などぱっと見た特徴を入れている。そんな風に、私達はいつも男を手玉に取っていた。
 
 けれど、それでも、どうしようもない夜、一人にはなりたくない夜に、私達は男に頼ってしまう。友達でも、同僚でも、仕事でも、酒でも、金でも埋められない穴がある。
 こんな風に一人の体にひゅうひゅうと風が吹き抜けていくような夜は、どうしてもそう思ってしまうのだ。
 
 帰り道、一月の風は冷たく私の頬を切った。自分の体にも風が吹き抜けていくような気がした。埋められない穴があるなんて思いたくはないのに。そう思いながら、ひたすらに歩いた。

 冬の空は灰色のまま、私の頭上に重く立ち込めていた。今までの後悔と、これからの不透明さが全てその空に集約されているように思えた。

 男がいれば、この全てが晴れ渡る訳ではない事は知っている。けれど、ならば、どうすればいいのだろう。
わからなかった。答えは出なかった。それでも、私は純が前のように笑顔になってくれる事を祈っていた。
 
 翌日、純は店を休んだ。純はここに勤めて二年以上になる。それだけキャリアが長ければこのまま消えてしまうような事はない筈だ。そう思いながらも、私は不安だった。「純ちゃん、大丈夫かな」と店長が私に聞いた。

「大丈夫だと思うけど」

 私は、曖昧に答えた。

 だが、純は周囲の心配をよそに次の日、元気いっぱいに出勤してきた。手には紙袋がぶら下げられていて、どうやら昼間は買い物に行ったようだ。全く心配甲斐のない奴だ。そう思いながらも、私はやはりまだ純が気にかかり、隣の席に座った。すると、純は私と近くにいたあいに誇らしげに手帳を見せて、言った。

「聞いて聞いて。私、今日、今年の目標作ったの」

 小学生じゃないんだから。そう言いながら、私とあいは手帳を覗き込んだ。そこにはカラフルなペンでこう書いてあった。

『1、避妊は万全に。2、男に貢がない。3、健康第一。4、彼氏を作る』

 私とあいはそれを見て呆れ返った。私は、即座に純に言った。

「純、全く懲りてないじゃん」
「いや、懲りてるよ。だから、目標作ったんだって」
「トイレでメールしないも入れておいてよ。うちの店、トイレ一個しかないんだから、迷惑なんだよね」
「いや、それはする。あのこそこそ感がまた盛り上がるんだよね」

 私と純の話に、周囲の女達も混ざってきた。

「純、本当に勝手過ぎ」
「ていうか何? そのプレイ」
「ある意味、変態だろ」

 私とあい、そして回りにいた女達はそうやって純に突っ込んで笑った。純はそれにいつものように「何よ、皆ひどい」などとむくれ、更に笑いを誘っていた。

「全く懲りない女だよ」

 私は純にそう言い、小さく肩をこづいた。
 
 けれど、私達の誰もが本当は知っている。純がその後、水子供養で有名なお寺に一人で出かけた事、そこで貰ったお守りをいつも財布に入れている事を。いつか、純が男の胸の中でその事を話せるようになれたらいい。信心深くなど全くない私だけれど、今度、神社仏閣の近くを通ったらそのように祈るつもりだ。
 
 男でなければ埋められない穴があるかもしれない。けれど、埋められなくても暖める事は、きっと、私達でも出来るから。


 こちらは、2012年に出版したわたしの二作目の長編小説『腹黒い11人の女』の第14回です。
 書籍が絶版になったので、noteで再掲載しています。

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そして、わたしの手元にも在庫がございます。
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最近、荷物の整理をしていたら、この話のモデルになったキャバクラの写真が出てきて懐かしい今日この頃。そして、あの頃書ききれなかった書きたかったことも書けそうな今。

再掲載を終えたあと、『腹黒い11人の女、その後』と題して、その後の話も書きたいと思います。

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眠れない夜に

忘れられない恋物語

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。