【本と私と思い出と】わたしを離さないで/カズオ・イシグロ著
私の母親は、家族の中では本を読むのが好きな方で、勤め先も本屋だった。
芥川賞や直木賞を受賞して話題になった本は必ずと言っていいほど手に入れ、居間やベッドに寝転がって読書を満喫していた。
母の部屋にある本棚には読み終わった本が並べられ、時間を持て余した私や弟たちが手に取ってなんとなく読む、みたいなサイクルが実家にはあったと思う。
この「わたしを離さないで」も、母親のコレクションの一つだった。
著者のカズオ・イシグロ氏は、2017年にノーベル文学賞を受賞して話題になったので、さっそく母親がイシグロ氏の代表作を買ってきたというわけだ。
私もイシグロ氏のことやこの本についてニュースで見聞きして馴染みがあったから、本棚で発見するや否やすぐさま読み始めた。
私はラッキーだったと思う。この本の中枢に触れる情報に出会わず、まっさらな気持ちでページをめくり、読了できたのだから。
この本は、事前の知識はいらない。だから、検索などしないでほしい。面白さが半減するから。
主人公は、キャシー・Hという31歳の女性。「介護人」をしている彼女が、ヘールシャムという施設で過ごした若き日々を振り返るーーという設定で物語は進む。
登場人物が多い。キャシーや同年代の仲間たち、「保護官」「マダム」と呼ばれる大人たち…。彼らとの日々を、懐かしげに、一方で、忘れようとした時期もあった、と回想するのだが、語りの端々に不穏な何かが見え隠れしていて、「一体これは何の話なのだろう」と活字を追うスピードがどんどん速まっていったことを覚えている。
やがて、少しずつ物語全体に横たわっている「何か」がうっすらと見え始め、次第にその輪郭がクリアになってくる。
同時に、登場人物が背負う過酷な運命までもが鮮明になって、読み手に重くのしかかってくるのだ。
その「何か」は、とうとう最後まで本の中には登場しない。
私は母親に聞いてみた。
「『わたしを離さないで』ってさ、要は○○○○ってこと?」
「ーーそういうことだろうね」
母親と意見が一致して、やっと靄が吹き飛んだ。それから、この本についての感想を語り合った。
***
とある年末。
新聞の「今年のベスト書籍」的な特集で、「わたしを離さないで」が1位に輝いていた。おおー、やっぱりねー、面白いものねーと姿勢を正して紙面と向き合ったのだが、紹介文を一読して「えー!」と思わず声を上げてしまった。
母親とわたしがたどり着いた「○○○○」という単語そのものが、本の内容として紙面に印字されていたからだ。
ちゃんと読んでいたら、わざわざこのワードを出すだろうか?読書の興奮を半減させるという想いに至らなかったのだろうか?と、怒りを通り越して、残念に思ってしまった。
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登場人物のセリフと、主人公の回想だけで話が進むので、人間ドラマの色が濃いですが、実はSFでもあります。科学の進歩の裏にある悲劇を、悲劇だと騒ぎ立てず静かに、しかし力強く訴えている作品だと私は思いました。
「○○○○」の正体を突き詰めた後に再読するのも、貴重な読書体験となりそうです。