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悪童日記|アゴタ・クリストフ
読了後の儀式、タイトルと向き合う。
原題の直訳は「大きなノートブック」だそうだが、『悪童日記』と意訳されている。
この子らの賢さ、したたかさ、逞しさ、大人顔負けの物言いは、ホームアローンのケビン少年と重なる。
双子のケビン少年。
これは質が悪い。
でもこの子たち、なんか憎めないんだな。
「きみは、『おばあちゃんの家に到着する』という題で作文したまえ」
もう一人が言う。
「きみは、『ぼくらの労働』という題で作文したまえ」
最初から最後まで「ぼくら」で語られるこの子たちの作文(日記)。
ぼくらには、きわめて単純なルールがある。作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。
ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。
たとえば、「おばあちゃんは魔女に似ている」と書くことは禁じられている。しかし、「人びとはおばあちゃんを<魔女>と呼ぶ」と書くことは許されている。
ぼくらには、ゆるぎないルールと正義がある。
それが非道でも残酷でも。
ぼくらは破れた汚い衣類を身に纏う。裸足になり、顔と手をわざと汚す。街中に出かける。立ち止まり、待つ。
「(略)どうして、乞食なんかしているの」
「乞食をするとどんな気がするかを知るためと、人びとの反応を観察するためなんです」
婦人はカンカンに怒って、行ってしまう。
帰路、ぼくらは道端に生い茂る草むらの中に、林檎とビスケットとチョコレートと硬貨を投げ捨てる。
生き延びることだけに全振りした「ぼくら」の生き様に、快感すら覚えていたら。
ぼくらのうちの一人が、―(略)―。
残ったほうの一人は、―(略)―。
もはや一人と錯覚していた「ぼくら」が、二人にわかれて終わった。
終わった、がそのまえに、教えてほしいことがあるんだ。
きみたちの名前はなんていうの?
呆然としたまま本を閉じてタイトルに目を落とす。
くっそう、この「悪童」め!
「悪童」のぼくらの物語が三部作だと知るのはこのすぐあと。
タイトルと向き合うことにしたのは、東野圭吾作品によるところが大きい。
「容疑者Xの献身」の「献身」に、いまだに目頭が熱くなる。
「聖女の救済」の「聖女」と「救済」、もう、こうとしか言えないと目頭が熱くなる。
タイトルでもう一度物語を抱きしめて、終わる。
悪童たちは、抱きしめる前にするりといなくなった。