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学校は「保育所」?不登校の是非は誰のため?

不登校に対する親の本心

前回、不登校経験者の現在を追い、不登校が自立への基点になる可能性を示した映画について触れ、その中でオレ自身が今自分を支えているものは「学力への信頼」であったことに気が付いた話を書いた。

しかし学力への信頼、ということと、学校が子どもにとって安心して通える場であるかはまた別の視点が必要であろう。

子どもが適応できずに苦しんでいるからその解決を模索するのは当然だが、不登校を積極的に推し進めていくのか、登校を促していくのかを判断するのは、親自身が経験してきた学校での体験や経済的状況、地域性などによって大きく変わるだろう。

親は子どもの目線に立てているかを問われる局面だが、我が子が不登校になってみて気が付いたことは、親自身が学校に何を期待しているのか、という親のニーズであった。

考えてみれば親のフィルターを通しているはずなのに、それを考慮しないのは不自然なことだ。不登校の是非をめぐる議論は、個々の親や大人たちの価値観の反応に過ぎない。であれば、子どもの行動を「正しい」とか「間違ってる」というジャッジをくだす以前に、まずは親や学校に関わる人たちが、結局それで自分は何を得たいのか、と本心を自分で認めてみれば、「学校にいくのは義務だから」など一方的な強制ではなく、当の子どもたちとも対等で建設的な話し合いができるようになるだろう。

不登校の子どもを抱える親御さんに、視界を開く一つの考え方として役に立てたらと思うので、自分のケースに即して書いてみる。

学校は「保育所」?

ではオレが期待しているのは、学校が自分の子供に、読み書き算数を習得させることだろうか、全体行動への適応の指導だろうか、「いやでもやらなくてはいけない」ことへの耐性を身に着けさせることだろうか。そのようにして子どもが周囲に迷惑かけないよう成長していくことで親として背負っている責任は果たしたという安心を得たいのだろうか。

考えた挙句、出てきた答えは、
「保育所」としての学校
であった。

つまり、不登校をめぐる葛藤の中に、自分の仕事のために日中子どもをどこかに預ける必要がある、というこちらの都合が含まれていることを認めなければなるまい。

保育所、というと何やらネガティブなイメージになるかもしれない。
だが、安全で友だちと過ごせて、安心して預けられる場所、という意味ではこれ以上ない保育施設に思える。いいかえれば子どもがのびのび成長するのにそれ以上何か必要なのかとさえ思える。

学校を保育所とみなすことが妥当かどうかはわからない。
だけど案外同じようなニーズを抱えている親御さんは多いのではないかと思えてくる。
核家族の共働きで家を支える世の中では子どもを家だけで育てるのは土台無理な話だ。とはいえ、学校生活に苦しむ子どもにムリに行かせることを誰も好き好んでしたくはないだろう。子どもにはのびのびと成長してほしいと望むならなおさらだ。

映画の不登校経験者もそのすべてが側に親がいられたからこそ受け入れられてきたケースで、それができないから親も子も苦しくなるのは、少しネット上で声をきいてみれば明らかなことだ。

今ではフリースクールなどの選択肢も徐々に増えているので、学校になじまないのであれば検討をしたいところだが、こちらは経済的にも物理的な距離にも制約がある。

まさに袋小路だ。

子どもを諭す前に本音を自分で認めてみる

こうした行き場のない子どもたちが過ごすことのできる「子どもの居場所づくり」がもっと必要だと、いう意見をよく耳にするし、自分自身も同じ思いだが、こうした言葉は、子どもに寄り添ったものであるようで、実は親側として、子どもを預けておく必要がある、という実情にも基づいているものだという自己理解がないと、子ども自身が「不適応」というレッテルを自分に貼りつけ、不登校を自分の責任だと背負ってしまう危うさを感じている。

そうではなく、子どもには、学校に行けないのは限りなく普通のことだと、行けないことに罪悪感を負わせることでなく、安心して毎日を過ごせることだと思っている。

大きな目で見れば、別に子どもが家にいることに良し悪しはなく、ただ今の社会がそれを問題だとジャッジしているだけで、仕事はもとより、四六時中のこどもの世話から解放されたい、(あるいは自分の子どもを特別視して、他の子との差異化を図りたい、)という深層にある本音を自分で認めてあげると、自分自身が「子どものため」という呪縛から解放されるだろうし、そうすれば子どもの苦しみやニーズにもっと寄り添いながら、どうすればいいのかを考えることができるのではないか。

これはおそらく「学校に行きなさい」と子どもを向かわせようとする親御さんにも言えることで、意識に上がってくるものとしては、学校でみんな一緒に力を合わせることや、先生の言うことをしっかり聞いて規律を学んだりすることが大事だから、という社会が求める信条に従うものかもしれないが、深層では例えば「ワタシは仕事をするのが好きだから」など一人の人間としてのニーズに基づいているのではなかろうか。

そうした自分の本音に気づくだけでも、「せねばならない」という思考から解放され、逆に子どもにも一人の人間としてのニーズがあることに目を向ける余裕が出る。そうして子どものニーズと自分のニーズを突き合わせてみれば、子どもの気持ちとわざわざ対立的にならなくったっていいのである(もちろんあなたを心底大事に思っている、というメッセージを常日頃から伝えていることが前提だ)。

そのうえで、安心して預けられる場所を公立の学校以外に多様に選択できる制度、例えば民間のフリースクールへの助成など(一部自治体で実施しているとのこと)、通いやすい制度が整備されることで、袋小路に追い詰められてしまう親子の一組でも救われることを望んでいる。

不登校家庭の実情として

オレも妻も自宅で仕事をしているとはいえ、子どもを常に見守ることはできず、息子もまだ手助けが必要な年齢である。興味関心のあることについてはできるだけ一緒に時間を過ごしたいと思っているが、現状ではその時間を取ることができない。

自分から夢中になって探究する博士ちゃん、のような天才児であれば心配ないのかもしれないが、世の中そんな子ばかりではない。

確かに不登校になり始めたころ、学校にいる、ということだけでエネルギーを消耗しているのが目に見えていて、まずは回復が先な状況の中で「何もしない」という時間が必要だったのだと思うが、不登校が長引くと、息子が一人で過ごす時間が多くなり、何をやってるのかと気になったり、子どもも親の目が気になり、とお互いにストレスフルにもなる。

何かしら彼が本当にいきいきと輝ける居場所を見つけてあげたい、という思いで探し続けてきているのだが、それは時間的空間的余裕が欲しいというニーズを抱える自分のためであることも確かだ。

親の都合としての「行かせたい学校」

一方で別の思いもむくむく湧いてくる。学校が本当に子どもにとって「安全」で「楽しい」場所に成り得るのだろうか、という疑問である。これもまたいかにも「子どもの立場で考えたら」と錯覚してしまいそうなのだが、本来は自分の価値観に照らし合わせて出てきた感情から発していることを認めなければなるまい。

前回オレは不登校経験者の体験の映画を観て、今の自分の助けになっているのは中学受験を経験し進学校に通うことで身についた学力だったことに気が付いた、という話をした。だから教科を学ぶことに関して特段の文句があるわけではない。

むしろ義務教育の範囲でも相当な部分まで誰もが無料で学習できるという学校制度が全国で共通に整備されていることは、大多数の人にとってプラスに作用していることと思う。

ただそれを実現するために、全体行動の徹底や、家での生活時間を圧迫する宿題量は必要なのか、と感じている自分がいるのも確かだ。

映画の中でも不登校に至った人の理由の多くが、こうした学習以外のシステム的ものへの不適応であったが、これは子どものみならず、親である自分も不安を抱くものである。隠さず言えば子どもたちが将来生きていく世の中で、こうした学校のあり方が役に立つとオレ自身が思っていない。
彼らの親御さん自体、学校を必ずしも行かなくてはいけないところ、と考えていなかったようで、そうした親の価値観の反映でもあっただろう。

極端な話、学習に関していえば自分で教えられるわけだから、時間さえあればホームスクーリングで事足りるし、社会や理科などはかえって子どもの好きなテーマを深堀りできるし、自分で教えてあげたいことも山ほどある。
しかし、繰り返しになるが、その時間を毎日確保できる余裕は今のところない。

だから、学校がもっと子どもの創造力や探究力を自由に育める学びの場であったら、今の学校嫌いの子たちだって喜んで通えるようになるかもしれない。
子どもを預けなければいけない、という親のためにも、「行きたくなる学校づくり」に励んでもらいたい、というのが本音だ。
こうした学校の先進例を扱った記録映画もあるので、また紹介してみたい。

新たな子どもの居場所としての「適応指導教室」

と、ここまで書いておいて、もっと身近で経済的な障壁も限りなく低い「ある場所」のことを思いだした。
「適応指導教室」の存在である。
適応指導教室は主に市などが運営し、学校の替わりにここに登校すると学校の出席として認められる、いわば公立のフリースクールとして20年ほど前から徐々にその数を増やしている。
昨年うちの息子もお世話になっており、その様子から言い方は悪いかもしれないが、まさにオレのニーズとしての「保育所としての学校」的存在を満たす場として、これからの公教育のあり方を示唆するような存在になるのではないかと注目している。
適応指導教室についての詳しくはまた次回改めて書いてみたい。


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