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課題解決は悪なのか

以前、けんすうさんがポスト資本主義について「課題解決は重要ではなくなっている」とツイートされていました。

言うまでもないですが、世の中は課題だらけです。

閉塞的な環境は常に息苦しく、自分も仕事や活動を通じてそれを変えたい、という意欲を持ち続けています。

一方で、これまで資本主義の恩恵を受けた企業や個人が、グローバル化やテクノロジーの進化の過程で「どうにかして生き残る」ことを迫られ、無理やり課題を作ったり、小さな問題を大きく見せて、それでビジネスをするということも少なくありません。

最近だとSDGs(持続可能な開発目標)がゴリ押しされる一方、その活動と企業の実態が伴っていないケースもあります。(残業や廃棄が多いとか)

私も広告業である以上、クライアントの生産活動を礼賛したり、ユーザーの眼前に課題を突きつけ、無知を恥じさせ、さっさと解決したくなるような施策提案をしないと、メシを食うことができません。

中には「ある課題の解決を目指す」と宣言し活動しながら、実態としては限定的な利益のために「解決を先延ばしさせる」集団も、ニュースで見かけます。

モノも情報も溢れ、世界の中でも比較的安全な日本において「課題解決」とは、ある種「必要悪」だったり、あるいは「暇つぶし」なのかと、考えてしまいます。

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冒頭のツイートに関連して、小説家の佐川恭一さんが印象的なことを語っていました。

小説に社会的意義みたいなものを求めるのは、僕は良くないと考えています。小説とか芸術を何かに役立つものだと位置づけたいという気持ちはわかるんですけど、何の役にも立たないものの存在を認める領域ってすごく大事だと思うんです。そういう領域の一部として、小説の世界があってほしい。

小説の中に社会的意義のあるものもあれば、そうした文脈から切り離されたものもある、そういう混沌を認めないと、活気もますます失われてしまうんじゃないでしょうか。

そもそもすべてに意義を求める姿勢って、人間に当てはめて考えたらすごく怖いことですよ。社会の役に立たない人間を認めないっていうところに繋がりますから。

実際、社会というのは役に立たない人間にかなり冷たいと僕は思っているんですが、そうじゃない領域が絶対にあってほしい。少なくとも小説を単純に社会に奉仕するものとして位置づけないでほしいと思います。

記事より

これは小説の話ですが、コンテンツ全体、いやあらゆる活動に置き換えられることではないかと思っています。

典型的な転職活動では、「それまでの成果」や「今後の再現性」でジャッジされる場面が多いですが、それに当てはまらない仕事を続けてきた人や、当てはめたくない人も、少なくないはずです。


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