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村上春樹 『街とその不確かな壁』

★★★★☆
 
 2023年4月刊行。1980年に文芸誌、文學界に発表された『街と、その不確かな壁』をリライトし、新たに長篇小説に仕上げた1冊。ハードカバーで650ページ超というなかなかのぶ厚さ。
 そもそも『街と、その不確かな壁』は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という作品に昇華されたはずなのですが、作者としては、「小骨が引っかかった」ように気になっていたらしく、今回の書き直しにつながったようです(『街と、その不確かな壁』はその出来栄えに納得していないためか、雑誌掲載のみで全集にも未掲載)
 正直にいって、今作の評価はなかなか難しいところでしょう。少なくとも作品単体として読むと、かなり不可思議な小説に感じるかもしれません。村上春樹の小説を読むのが初めての読者が今作を読んだら、わりとついていけない気がします。というのも、ほかの作品と比べると、物語の展開があまりなく、寓意性の強い抽象的な話だからです。
 刊行してすぐ、わりと酷評されている文章を目にしたのですが、それもわからなくもないです。とはいえ、今作をふつうの小説の枠組みで読むのは、ちょっと筋違いかな?という気もします。たとえば、私とコーヒーショップの女性とのこのあとの展開などは、この作品では些末なことだと思うので、そこが描かれないことについて批判するのは的外れな気がするのです。また、村上春樹が「老い」を描いていないという批判を目にしたのですが、高齢の作家が「老い」を描かないといけないわけではありませんし、村上春樹の作品にそれを求めるのも、ちょっと違う気がします。
 村上春樹という作家は、ディタッチメントとコミットメントなど二項対立の枠組みで語られることが少なくありませんが、本質的には自己への関心・探求でドライブしていく作家であり、世の中の流れや社会の仕組みに興味があるような作家という印象は、少なくとも僕はありません。そういう気質は一種のネイチャーのようなものです。作家のネイチャーにないものを作品に求めても、八百屋でサバを買おうとするようなものではないでしょうか。
 
 僕は今作を読みながら、「村上春樹の創作システムを寓話化した作品」という感想を抱きました。この作品は全篇にわたって、いくらか具体的な情報が提示されるものの、あまり現実味がありません。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』における「ハードボイルド・ワンダーランド」から感じる小説内のリアリティがあまりないのです。どこまでも抽象的で、小説内の現実と虚構の壁が曖昧にされています。そのため、寓話のようにつかみどころがなく、マジックリアリズムという捉え方を超えて、抽象性の高い作品になっています。
 村上春樹は終活というか、自身のキャリアをまとめようとしているのでしょうか? 2021年に「村上春樹ライブラリー」がオープンするなど、ここ数年で自身のキャリアの総まとめをしている印象があります。そうした点をふまえると、自己とその創作行為を寓話のかたちで追求した作品としても読める気がします。
 村上春樹自身のインタビューを読むと、「継承」がテーマのひとつだったらしいですが、自身の創作システムを小説というかたちで寓話化し、それを読者(のなかにいる未来の作家にも)に継承するというふうに読むと、わりと腑に落ちるところがあります。
 かなり多様な読み方ができる作品であり、人によって無数の解釈ができるでしょうが、この分量の小説をすらすらと読ませる筆力には驚嘆しないわけにはいきません。とはいえ、あくまで僕個人としては、優れた作家の晩年の作品としてなかなか興味深いものの、作品単独で考えるとちょっと特殊すぎるかな、という印象です。

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