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嫌な人がしてること、それは自分がした経験があるからだろうな。自分は気をつけているのにな、ということだろう

私が一番気にしていること、気をつけていることは奢り昂り。

自分の納音(※)に「ひときわ目立ち、中心的な役割を果たす。」という文面を見る。

ああ目立つんだな、やっぱりそうなんだよな中心的になるよねという自覚の反面、ちょっとやだなと思っているわけです。

なんで嫌なのか、考えてみた。
私の一言で人が動くことが、強引になっていないか気にしているからだろうなと。

私自身、自分が良いと思っていないことについて相手に強制されるのが苦手なんですね。だから自分もそういうことしてないかな?ってとても気になるわけです。

相手が必要としていた、助けを求めている時は喜ばれる。そんな考え方があったんですね!!!と喜ばれる。それに、2〜3年経ってから「結果的にあのとき言ってもらえてよかった」と言われると相談相手冥利に尽きるなと思うわけです。

厳しい中にいる人は、分からないものなんです。あんなこと言われたけど、難しいなとか、できないなとか。違うんだけどなとか、わかってはいるけど ってなかなか踏み込めない人もいて

そういう人は、ああ
強引に連れていかない方がいいんだなと思っているんです。

ただ、専門家から見てその人には必要なことなので、その後も解決することはなく、繰り返しその事がその問題として感じ続けることになる。

だからそれを問題と感じないよう、手を貸したいと思うようになったんですね。

根本的な考え方のところ、問題を次々に見つけようとしない人格を育てる。
誰だって本来幸せな生き物であるし、気をつけることや、事前に整えておくことができるからなんです。

もし、それも手伝うことができず、その人がいづれまた問題を抱える時がきます。
私ではない違う人に、対処的に助けてもらえたとしたら、よかったなと思うじゃないですか。まずはよかったねって。

私も助けたかったなと、私の伝え方では弱かったかーと思う。まぁでもいいんじゃない?それがいいなら。って思っています。笑 (軽くデイスってる?)

実際にあった話


相手が欲しいのは氷見うどんじゃなくて、こってりラーメンだった。
私はこってりラーメンは出さないですから
「そっかー、氷見うどんじゃ違ったか〜」と思うだけなんですね。
私は確固たる人生観としてコッテリラーメンは出さないじゃないですか。絵にも画的にも出しません。

「この富山の氷見うどん、すごく美味しいので茹でて美味しく召し上がって!」 
というスタンス。こってりラーメンを出してクセになるようにしてまた来てねというのではない。

茹で加減をご自分で理想に調整し、おだしとのマリアージュで喉ごしを感動してほしい。そしてまた氷見うどん食べたいなと、富山を思い出す。富山、空気綺麗だし自然度高くて癒される。そんな氷見うどんの乾麺を贈るわけです。

私にしかできない伝え方、触れ方ってあるなと思ってます。

奢り昂りが強く、調子に乗りたい人にとっては物足りないかも知れません。
私が提供できるのは、長期的に、あなた自身があなた自身を育て、周囲の何かと必ず関わり合いながら人生が豊になっていくこと。

人は最初、うまくいけば自分のおかげ。よくならない、悪くなれば相手のせいなんです。
だから、その考え方の部分から育てていく。そんなスタンスでやっています。


※天上火という納音(なっちん)についてはこちら

自信とおごりは紙一重。自分に溺れないように。
身勝手な振る舞いを慎むことが、「天上火」の人には必要。

自身の力を信じつつ、謙虚であれば、人の上に立ち、活躍する人。

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