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似て非なる、フリーとフリーランス


「愛こそもののプロフェッショナルなれ」

を高校時代に思い知った私は、サッカーに代わる愛情の向ける先を映像にしようと、大学時代に決めていた。

新卒で就職した先は、とあるCM制作会社の企画演出部であった。

大抵の新卒は制作部、つまり撮影の進行管理、もっと言うと現場の弁当の注文などから始めるので、ディレクターを目指す者にとって企画演出部への配属は非常にラッキーなケースである。


それどころか私の名刺には早速、「ディレクター」という肩書きが付いてしまった。昨日まで大学生だった自分が、今日からディレクター。

夢のような肩書きであった。

当時、出始めたばかりのMacbookを片手に、会社やカフェで企画を考え、コンテを描き、映像を編集する毎日。

人から見れば浮ついていると思われるだろう。
そうだ、当時の自分は完全に浮ついていた。
必死に仕事をしているのだが、全く地に足が着かないのである。

当然だ。まだ何者でもないマッチ棒のような自分が、ディレクターというブカブカの服を突然着せられ歩いているのだから。

そのブカブラの服のままでクライアントと打ち合わせをし、コンテを描いては提出し、突き返される。ディレクターという肩書きは与えられているのに、自分は一向に何者にもなれない。何ものにもなれないまま、私はたったの一年で会社を辞めた。

似て非なる、フリーとフリーランス

会社を辞めた私は、フリーになった。
強調しておくが、フリーランスではない。ただのフリーだ。
世間からの需要は全くなく、ただ膨大な時間だけが手元にある。
肩書きも置いてきてしまったので、名乗る職業もない。
Macbookを小脇に抱えた、ただの暇な人だ。

暇ではあるが、「本当に好きなこと」を確かめるために辞めたのだから、やることはいっぱいある。
私は外からは見えない自分だけのアクセルを目一杯踏んで、あらゆることを学び始めた。

まずは過去の名作と呼ばれる映画を片っ端から観た。
お金がないので、当時高かったレンタル料金を節約するため、3時間100円で借りられるレンタルショップを猛ダッシュで往復した。


良かった映画は図書館で脚本を調べ、コピーを取って何が良いのかを分析した。漫画や落語にも手を伸ばし、話の構成のエッセンスを学んだ。
音楽や社会学系の本まで、興味の向くものにはあらゆる物に手を伸ばし、分析して自分の中に取り込むようにした。

この猛烈ぶりは、小中高大の16年間を総合しても追いつけないほどの学習意欲であった。一体今まで何をやっていたのか、と自分に呆れつつも、あっという間に過ぎる一日を無駄にしないよう、側からは完全に無駄と思えることに全ての時間を費やしていた。

そうこうするうちに、あっという間に2年弱の時間が経過していった。


フリーランスになる

フリーな身分を、いつ辞めるのか。
今現在フリーな人たちにとって、この問題は胸を締め付けるものだろう。
私の場合はお金が無くなったから、ではなく、私自身の中から別れのタイミングがやってきた。いきなり、猛烈に働いてみたくなったのである。


これもきっと、子供時代に端を発する「逆転野郎」の性なのだろう。
フリーを満喫してる間に周回遅れとなってしまったマラソンレースを挽回するべく、私は猛ダッシュをかけ始めた。

今度こそ自分でちゃんと、ディレクターという肩書きの名刺を作った
小さな仕事からコツコツとやらせてもらった。
ディレクターがやる仕事じゃないだろう、という類の仕事まで。
だが不思議と全ての仕事が楽しかった


会社員時代はしっかり使えなかったMacbookを駆使して、アニメーションを描いたり、撮影したり、編集したり、ナレーションを入れたり、音楽を作ったりと、映像にまつわることでやってないものはないと言い切れるぐらい、あらゆるオファーを全てやらせてもらった。

自分はこの仕事が向いていると、心から思えた時期である。


ディレクターへの違和感

有難いことに仕事が途切れることもなく、しっかりした演出コンテを提出するような仕事も多くなり、私は乗りに乗っていた。
稼ぎだって、会社員時代よりよっぽどいい。
死ぬほど忙しくはあるが、順風満帆というやつだ。

ところが、仕事をする中で小さな違和感を感じることが多くなってきた
渾身の思いで作った演出コンテが、通らないのである。
商品、クライアントのことを思い、自分のアイディアを目一杯詰め込んだつもりであるが、どう書き直して提出しても、通らない。

どこが悪いのかもわからず、とにかくムキになってがむしゃらに作り続けつつも、胸の中で違和感は大きくなっていく。

そんな違和感がパチンと弾ける日は突然にやってきた。
私は、ただの演出コンテに企画の要素まで書いてしまっていたのである。
そう思い当たった時、私は頭を殴られたような気分に襲われた。

これは青天の霹靂であった。
そうなのか、自分は自分の分をわきまえていなかったのだ。
プロジェクトにしっかり入れてもらえている代わりに、ディレクターという身分を超えて、プランナーの仕事に口出ししてしまっていたのである。

広告業界から遠い人には、プランナーとディレクターの違いなどわからないかもしれないが、両者の間にはびっくりするほどの違いがある。
いや、こう言い直した方がいいだろう。「ひと時代昔のプランナーとディレクターの間には、びっくりするほどの違いがある」と。

プランナーは商流の川上にいるが、映像ディレクターは川下に近い
言われた内容のものをいかに多くの手数で表現できるかだけが、ディレクターには求められるのである。

これに気がついた私の頭は、まるで雲が晴れたようだった。
これで余計なことに悩まず、自分の好きなもの作りだけに専念できる。
大学時代から自分が最も向いていると思ってきた、クラフトマンとして仕事ができるのだと。

しかし一方で、こうも思った。
会社員時代、いやもっと言えば学生時代からいわゆる身分、「DOの肩書き」に押し込められることに違和感を覚えてきた

「お前はこれだけをやっていればいい」と押し込められ、意見することすらできなかった高校時代の屈辱が思い起こされる。

そんな自分が自由を求めてこの職業につき、フリーランスとして胸を張って働いている。
しかしフリーランスのディレクターというのは、会社に所属していない分、かなり狭い分業システムの一部しか担うことができないのだ。

自由であることが、逆に不自由になるという気づき。
これは私の中で日増しに大きな問題意識となっていってしまった。

もっと、観る人や作る人、クライアントなど全ての人が等しく満足できるようなシステムを、自分の手で作れないものだろうか?
みんなが自分を与えられた分業の枠に押し込むことなく、良い物を生み出すために自由に発言でき、それを受け入れてもらえるような場所はないのだろうか?

また自分の殻がきつくなってきてしまった私は、再度の脱皮を試みることにした。
フリーランスという恵まれた状況を辞め、メンバーを集め会社を作ってみることにしたのである。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。



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