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狂気はなぜ生まれたか 相模原 殺傷事件

今月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で殺人事件が起こった。

犯人の植松容疑者は無抵抗の患者たちを次々と襲い、19人が死亡。26人が負傷することになった。

植松容疑者は今年2月18日、「重度障害者の大量殺人は日本国の指示があればいつでも実行する」などと職員に話したため、園が神奈川県警に通報していた。

同じく2月15日には衆院議長公邸に入所者を殺害するという内容のほか、障害者の安楽死を進める法案を可決するよう求める内容の手紙を持参。

19日には医師の診断をもとに、精神保健福祉法に基づき措置入院したが、3月2日に医師が「他人に危害を加える恐れがなくなった」と判断し、退院していた。

植松容疑者は大量殺人を犯した直後にツイッターで「世界が平和になりますように。」と投稿。

神奈川県警に身柄を確保された際には「障害者なんていなくなればいい」と話していたという。

常識的に考えれば、「障害者がいなくなること」と「世界が平和になること」は何の因果関係がない。

それがあたかも当然のことのように結びつけられている点で、彼の精神は極めて異常に歪められていると考えていいだろう。

報道陣に囲まれた際に笑顔を見せた笑顔はそのことを如実に表している。

おそらく多くの人たちはこのような異常な精神の持ち主をなぜすぐに退院させたのか疑問に思ったことだろう。

いくら病院側が自分の行動を反省する言動があったことを説明しても、私たちは何か見落としていたのではないかと勘ぐりたくなる。

しかし、医師の行動はこの社会において極めて常識的な判断だったと言うべきだろう。彼の語る言葉をそのまま受け取り、「彼自身から発せられた」と考える限り、そこに異常性は見当たらない。

意識の底に潜む無意識の広大な世界とそれと共に存在する多様な他者の存在を認めなければ、彼の中に潜んでいた狂気を見抜くことはできなかっただろう。

精神分析では人間の心をエス、自我、超自我の三つの機能に分けている。エスはひたすら快感を求める無意識の欲望を求める存在であり、超自我は「~であれ」と道徳的であろうとする働きをする存在。そして自我はその両者の間に入って調整する役割を担っている。

だからたとえどんなに真面目で品行方正な人であっても、その人間の心の底ではそれと相反する心を持っていると考える。

植松容疑者の場合も全く同じで、彼がいくら人当たりがよく、人に好かれる一面を持っていても何ら驚くべきことではない。

彼が持っている外向的で明るい一面はあくまで一部であって、彼自身の人格の中心を担っているとは限らない。

地元の友人の話によれば、彼はグループの人間の中でも無口で大人しく、目立つ存在ではなかったという。

ここから彼はもともと内向的な人間だったのではないかと推測できる。

また、親が教師であったことを考えると、彼の本能的な欲動(エス)が常に抑圧される傾向があったことは容易に想像できる。

彼は大人になる過程で、徐々に本来の欲動を発散させていったに違いない。

そうした意味では、彼が大学時代にいれたという「入れ墨」は自らの内に溜められた彼本来の欲動(エス)の発散であると考えることができる。彼にとってそれは単に「かっこいい」ものではなく、抑圧された本来の欲動が発散された「快感」の証でもあったのだ。

それと同時に、「入れ墨」は彼が自分の内面の問題に向き合わなかったことも示している。彼自身が日頃から感じていた「自信のなさ」は「入れ墨」という極めて肉体的なもので誤魔化され、正しい方向へ向かうことを妨げたのだった。

彼が極めて異常な言動をとるようになった背景には彼が選択した進路と職業にも深い関係がある。

父親のように教師になろうとしていた彼は、いったん障害者施設で働きながら養護教諭(特別支援学校の先生)になることを目指していた。

もともと障害者に対しては何の思い入れもなかったのだろう。彼にとって仕事はその場限りの仮のものであり、嫌々しなければならない面倒なものだった。彼の勤務態度はだらしなく、遅刻することも多かったという。

生活するために仕方なく仕事を続けていくうちに、彼の心の中に不満や怒りの感情が芽生えてくる。

「どうして自分だけがこんな目に合わなくてはならないのか」

「なぜ教師を目指していた自分が障害者の面倒を見なくてはならないのか」

彼にとって障害者は自分本来の欲望(教師になる)を妨げるものだった。それゆえその不満と怒りは、やがて施設内の障害者たちに向けられるようになる。

突然、植松容疑者から「障害者なんて、生きる意味なくないですか」と言われた同僚はさぞかし驚かされたことだろう。だが、彼の心の内で負の感情は、そこで働き始めた頃から徐々に蓄積されていたのだ。

「障害者なんていなくなればいい」という考えは、私たちには極めて異常なことのように思える。だが、彼からしてみると、彼自身の苦しみから逃れるための最終的な結論だったのかもしれない。

この結論はもちろん、何の理性や論理も含まれていない。すべての決定は彼の無意識の中で行われ、彼自身ですらその結論がなぜ導きだされたのかを説明することはできない。彼は彼自身が気づかないうちに無意識の持つ欲動(エス)に完全に呑み込まれ支配されていた。

彼が逮捕後に報道陣に笑顔を見せたは、彼自身の無意識的な本能にとってはきわめて正当な行為であり、自分が正しいことをしたと信じているからだろう。多くの人たちが自分のもとに集まって撮影しているのを見て、彼は賞賛されたような気分になり、その達成感から思わず笑みがもれてしまった。

彼は自分の心を苦しめる者を排除することで自らの心の平穏を取り戻し、彼自身ですら不可解な「世界の平和」を成し遂げたのだった。




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