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なぜnoteに作品を公開するのか


以前、Fumさんの投稿の中でなぜnoteに作品を投稿するのかという質問がありました。

そのときは、正直「どうしてこんな当たり前のことを質問をするのだろう?」と思い、特に深く考えることはありませんでした(※ ゴメンナサイ・・・)。

しかし、最近、他の人のnoteの内容を見ていて、ふと「もしかして、noteに作品を投稿する理由が根本的に違っているのでは?」と思うようになりました。

よくよく考えてみると、自分がnoteに作品を投稿する理由は「中学時代」と深く関係しています。

根っこの部分がそこにある以上、noteに投稿する理由が他人と異なってくるのは当然のことでした。

※ここでの「作品」とは、文学的なエッセイや小説のことを指しています。

自分の書いたすべての記事が「作品」ということではありません。

Fumさんの質問

自分がnoteに作品を投稿する理由を説明する前に、Fumのさんの質問の内容を確認してみます。

改めて、Fumのさんの投稿を確認してみると、次のように書かれていました。

自分の作品をnoteに投稿して、どんな人に見て欲しいですか?
①過去の投稿作品を見て、好きになってくれた人に見せる個展のような位置づけでしょうか?
②作品の持つメッセージを色んな人に見てもらいたいという感覚でしょうか?
③誰かや何かのために作ったものを投稿されているのでしょうか?


Famさんの①~③の推測は、みな「誰か(他者)」に向けて作品を投稿することが前提になっています。

しかし、その推測が自分にとっては驚きでした。

「どうして他人に向けて作品を発表しないといけないの?」というのが率直な感想だったのです。

中学時代との深い関係

以前、「誰もいないグラウンドで」というエッセイで書いたように、私の中学時代はそれほど恵まれたものではありませんでした。

周囲の人間とうまく付き合うことができても、もともと内向性の強い性格だったのです。前回の記事で書いたユングの性格分類でいえば、この時期の私は「内向的直感タイプ」がまさにピッタリと当てはまります。

このタイプの人間は、自分が生み出すかもしれない何かを追求し、ひたすら自分の内面に入りこみます。

当然のことながら、周囲からは「何を考えているのか、サッパリ分からない」と疎まれてしまいます(※現在もそうかも・・・?)。

その当時、私には周囲には、自分の目指す方向を気づかさせてくれる人はいませんでした。

だからただ漠然とひたすら悩み続けるしかなかったのだと思います。

誰からも理解されない苦しみ。そして、何かを生み出そうと悶々と悩みながら過ごす日々。

そんな日常の中で唯一の救いが「書くこと」だったのです。

noteに作品を公開する理由

中学時代の私にとって、「書く」ことは、いわば治療のようなものでした。自分の心を癒し、充足感を与えてくれるもの。

そして、それがなければ生きていけないもの。いわば、パートナーのような存在だったのす。

もうお分かりかと思いますが、このスタイルは後にネットが普及してからも変わっていません。

かつて私の机の中に仕舞い込まれていたものが、他人でものぞき込めるようになったというだけのことです。

私は昔と何ら変わらずに他人の目を気にすることなく書き続け、その結果はたいして気になりません。

なぜなら、元々私にとって「書くこと」とは、自分のためのものであり、自分が生きるためにどうしても必要なものだったからです。

自分の作品をどんな人に見て欲しいのか

他人の目を気にしないのなら、なぜ「のぞきこめる」ようにしているのか、疑問に思う人もいるでしょう。

確かに、他人の評価を必要としていないのら、わざわざ公開する必要はないように思われます。

しかし、それは決して他人の理解を全く必要としていないということではありません。

小説や文学的なエッセイを通して発せられるメッセージは、単純な「言語」では置き換えることができない複雑で感覚的なものです。

その他人には伝わりにくい「何か」を、もしも理解してくれる人がいたなら、それ以上の喜びはありません。

問題は、果たして自分の作品をそう易々と理解してくれる人がいるのか、ということです。

どんなに情報技術が発達しても、その内容を「理解」できるかどうかは別問題です。

作品の内容が複雑で難解であればあるほど、理解される確率が少なくなるのは当然のことです。

ですが、私はあえてその極めて希な存在に対して意図的にメッセージを送り続けています。

その人間は私のいる場所からずっと離れたところに住んでいる人かもしれません。あるいは、もっともっとずっと先の時代に生まれてくる人なのかもしれません。そして、いずれ私と同じように悩み、苦しみながら生きることになるかもしれません。

いずれにせよ、私はおそらくその人とは直接会えないでしょう。それは非常に残念なことですが、ある意味、最後に残された「希望」でもあります。

私はきっとこれからも書き続けるでしょう。いつか私の書いたものを誰かが理解してくれる。

私のいる世界と誰かの世界が一つになる瞬間。

その瞬間が訪れる日を信じて私はただひたすら書き続けるのです。





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