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【子育て・趣味】テレビゲームは悪なのか?ーFinal Fantasy Ⅶ が私に教えてくれたこと #7

子育て、とくに小学生以降のお子さんを持つ方にとって、「ゲーム」は「YOUTUBE」とならぶ2大巨塔となっていることかと思います。特に自分自身がゲームをしないお父さんお母さんなら尚更「無駄な時間を過ごして…」と訝しく思われることでしょう。しかし、ゲームにもいいところはあって、むしろ子供にとっていい影響があることだってあるんじゃないか。今回はそんな話。

私はゲームが好きです。

私はテレビゲームが好きです。初めてスーパーファミコンの《スーパードンキコング》を買ってもらったのが小学校にあがる頃のこと、以降様々なジャンルのゲームに触れ、最新の《ゼルダの伝説ティアーズオブキングダム》では、子育てに仕事に忙しいさなか1日5時間ほどのプレイタイムで心身に多大な影響を与えるほど、大人になった今でもゲームをする時間は自分にとって大切なリフレッシュタイムになっています。思えば、ゲームをしていなかったら、もっと勉強したり、本を読んだり、仕事したりもっと有意義な人生を送れたのではないか?…《マインクラフト》で永遠に土を掘りながらそんなことを考えることもあります。しかし、しかしだ、だがしかし、ゲームが持つ芸術性や思想、クリエイターたちの仕事に多大な影響を受けているのも事実で、私の思考や美学の中には確実に時間を溶かしていったゲームたちのイズムが脈々と受け継がれていると感じています。考えても見てください、多くの大人やトップクラスのアーティストが総力と巨大の資金を投じて作り上げるテレビゲームが、ただの子供のおもちゃで済むでしょうか?

今回は毎週投稿”7”回目、そして2/29の《FINAL FANTASY VII REBIRTH》の発売を記念して、私の思考に最も大きな影響を与えたゲーム《FINAL FANTASY VII》について語りながら子供がゲームを遊ぶことの意味について考えていきたいと思います。※一部《FINAL FANTASY VII》原作および関連作品のネタバレ含みます

ゲームは総合芸術

1997年、小学生の私が初めて《FINAL FANTASY VII》に出会ったのは、知人の少しお姉さんの家でのことでした。ゲームを起動して最初に出てきたのは、高音から始まる美しい音楽とまるで映画のように美しい映像。巨大な都市を上空から眺める映像から一気にカメラが寄りになり一人の女性が映し出される。彼女がはっと目を開くとカメラは再び引きになり、都市の全景を再度移したかと思うと、音楽のクライマックスとともに《FINAL FANTASY VII》のロゴが映し出される。あまりのダイナミックな映像に呆気にとられていると、カメラは再び都市の中に入り込み、走る列車の上で大きなソードを構えた青年が駅に着くなりジャンプして華麗にプラットフォームに着地する。すごい映像だなぁ…とぼぅーとしていると次の瞬間戦闘画面になり、先ほどまで映像の中の人物であった青年を自分の手で動かすことになる。このオープニングムービーからプレイ画面へのシームレスなつながりは、ゲームがただのおもちゃや遊びではなく本格的な芸術の一つまで昇華されていることを子供心にも印象付けるものとなりました。(実際、本作は第1回文化庁メディア芸術祭にてデジタルアート(インタラクティブ)部門優秀賞を受賞しています。)音楽、映像、アニメーション、インタラクティブアート(最近では舞踊・演劇なども含む)などの芸術的要素を総合して一つの作品として仕上げたものこそ”ゲーム”なのです。

ストーリーの多面性

ゲームの総合芸術性においては、脚本も忘れてはならない要素です。ファイナルファンタジーのようなRPGと呼ばれるジャンルだけではなく、最近はどんなゲームにも大なり小なりのストーリーが求められます。脚本の良し悪しや整合性はプレイヤーにとっては重要な遊ぶモチベーションになりますし、ゲーム自体の評価に直結することすらあります。その点でも、《FINAL FANTASY VII》は私の幼心に衝撃を与え、なおかつ以後の思考にも大きな影響を今なお与え続けています。
ゲームのストーリーといえば、「悪い魔王が罪のない村人を襲い、勇敢な勇者がそれに立ち向かい戦う。」そんな勧善懲悪の物語をイメージする方も多いでしょう。子供心私もそう思っていました。ところが、《FINAL FANTASY VII》は全く違うのです。まず、主人公(オープニングで列車から飛び降りた青年)はミッドガルという大都市を拠点に暗躍するレジスタンスに協力する形で魔晄炉と呼ばれる発電所のような場所を爆破するミッションに参画します。街の人たちから見れば完全に”テロリスト”です。この世界での”魔晄”はいわば、原油のようなもので、生活インフラとして重要なエネルギー源である一方で限りある資源でもあります。主人公の仲間たちは、魔晄炉を動かす大企業(神羅カンパニー)を悪とみなし、星の限りある資源を奪う巨悪として制裁しようとしているわけです。ところが彼らの破壊行為は、結果として一つの町をその街の住民ごと潰してしまう結果となります。この裏には神羅カンパニーの様々な策略などもあるのですが、少なくとも街に住んでいた人からすれば、主人公たちによって暮らしや命を奪われたことになります。そして彼らは自分達が本当に正しい行いをしたのか…と自問します。

暗っ…

ここで思い出していただきたいのですが、これはゲーム。一生懸命レベルを上げ、装備を整え、敵を倒し、話を進めてきた結果がこの重苦しい空気。今書いたのはあくまでも物語の超序盤なのですが、この後も終始対立構造が出てきては、敵対側にも考えや想いがあり一概に否定はできない、プレイヤーを含めた主人公たちの戦いが本当に正しかったのか疑問が残るような展開が次々と巻き起こります。それでも、物語は進む。仲間のうちの一人が繰り返し語る言葉、「俺たちの乗った列車は途中下車できない」という言葉があります。安易に自分達の行為を肯定する発言ともとれますが…「人間は自分の信じたようにしか行動できない、それがもし誤っていたとしても、戻ることはできないし、前に進んでいくしかない。」というメッセージのように感じています。

物語の最終盤、いざ最後の戦いに向かう、というところで8人の仲間たちは一度解散します。それぞれの大切なもの、人、場所に一度戻り、それぞれの想いや考えを振り返り、それでも戦うと覚悟した者だけが最後の戦いに挑もうと約束します。(とは言え、最後はゲームなのでちゃんとみんな戻ってきてくれて全員でラスボスに挑むことになるのですが…)

《FINAL FANTASY VII》が私に与えたもの

”正しさ”は一つではない、自分の正義が誰かの悪かもしれないし、自分の愛するものが誰かにとっては憎むべき存在かもしれない。”思いやり”は自分の優しさを与えることではなく、まず相手を理解すること。自分にとって信じられないような行為も、その人なりの理屈があるかもしれない。そして、一人の人の中でも、想いや考えが変化することもある。

仕事をする上でも、プライベートでも、世間のニュースにすら、私は基本的に他者の考え方や想いをまず理解しようとするところがあります。私がこの思考を持つようになった大きな要因の一つに《FINAL FANTASY VII》はなっているように思います。正義と悪しかない、と思っていた子供心に人間の思考の多様さや多面性を教えてくれたのは間違いなくこの作品でしたから。

ゲームも大切な体験の一つ

私自身は昔から小説が苦手で、妙に客観視してしまい主人公の感情に共感することがうまく出来ないですが、自分で手を動かすゲームはとても共感ができ没頭することができます。
何からインプットするのが得意かは人によって異なると思っていて、小説に共感する人、音楽に共感する人、絵画に共感する人、人それぞれだと思うんです。ゲームもその一つで、ゲームのようにインタラクティブに体験することでの学習能力が高いタイプの人もいるんですよね。そのように思うと必ずしもゲームって完全否定するものではないと思っているんです。(ただ、世の中にはただ単に中毒性を上げて課金に繋げようとするだけのゲームもあるので、そこは見極め必要ですが…)
我が子はまだ2歳なのでゲームはしませんが、早く一緒に遊べる時がきたら嬉しいな、と今からとても楽しみにしています。

なお、《FINAL FANTASY VII》はその後幾多のスピンオフ作品(ゲーム・映画・小説などなど)が制作され、さらに登場人物たちの背景が深掘りされています。原作も今ではリマスター版などを現行ハードでも遊ぶことができます。未プレイの方は、ぜひこの不朽の名作を遊んでみてくださいね〜。

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銀座OLから突如縁もゆかりもなかった、長野県塩尻市に移住した私が日々の思いつきや偏愛、思考などを書き留めています。
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