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青春の形。ないものねだりで、彼女たちは眩しい

映画「SUNNY 」の日本リメイク版を観た。Amazon Primeのリストを何となく眺めていて、気楽に観られそうだなと、編集作業中のBGVくらいな気持ちで観始めたのだが…結果、まさかの号泣だった。



90年代のアムラーとも呼ばれるコギャル世代の青春と、その子たちが40代になった今がカットバックしながら描かれる、この映画。まさに私と同じ世代の子たちのエピソード。大人になった彼女たちは、それぞれの場所で、それぞれの人生を、例外なく悩みや苦労を一人抱えながら生きている。


私にとってものすごく眩しかったのが、コギャル時代の彼女たちの日常だった。自分の高校時代には露ほどもなかった大騒ぎ、大笑い、大事件、仲間との深い絆が、そこにあった。(もちろんこの時代も誇張して描かれていると思うが、全く経験していない世界のことなのでジャッジできない)


キャピキャピ感は一ミリもなく、シラけた女子高生。それが人が知る「私」だった。でも本当はシラケては決してなくて、宇宙とか、命とか、魂とか、生きることとか、死ぬこととか、色んなことを一気に考え出して、頭がパンクしそうで、でも誰にもこんなこと話せない、分かってもらえないと思って殻に閉じこもった、そんな時期だった。一人の時間が何よりも必要だった。同時にいつも斜め上から私をみているもう一人の自分の存在を感じて、無邪気にはしゃいだら「何やってるのよ」と言われそうで、できなかったという面もあった。

そんなだから、当時もし「SUNNY」の主人公たちが周りにいたとして、私にとってはただの騒がしくて華やかな人たち。別世界に生きているようで、交わることはできなかっただろう。


コギャルと呼ばれた人たちは、その有り余るほどのエネルギーを思いっきり“外”に発散していたように思う。そのファッション、そのメイク、その行動は、そんな彼女たちのエネルギーが集まり形となって現れたモノで、世の中を席巻するパワーがあった。トレンドは常に変化したし、何だかいつも刹那的だった。「今しかない」「今を楽しまなきゃ」という切迫感があった。


中身空っぽで虚しい。私は当時そういう華やかな子たちのことをそんな風に見ていたのかもしれない。それは、自分がそうできないうらやましさの裏返しで。


でも映画「SUNNY 」のリメイク版を観て、気づいたことがある。外に向かうエネルギーや形になったモノは、常に変化し、いずれ消えるものだ。そこにあった友情もいつしか形を変えたり、消えるかもしれない。でも、一緒に過ごした日々は確かに積み重なっていて、それぞれの“内側”に、それぞれの形でしっかり残っているのだ。そしてさらに「今」を重ねていった先に、もしかしたら再会があって、またその人生が交わるのかもしれない。


「あの頃はよかった」「あの頃は楽しかった」と話す人がいる。歳を重なる中で少しずつ楽に生きられるようになってきた私にはそんな感覚は理解できなかったが、その人たちの“内側”に積もったモノが大きかった時代だったからなんだろうと、初めて思えた。


私はいつもちょっとあまのじゃくで、時代の流れにうまく乗れなくて、一人どこかで一度立ち止まって見つめないと色んなことが整理できない。もっと颯爽と軽やかに生きられたらといいのにと思うが、それはきっとできないから、こうやって色んなところから立ち止まるきっかけをもらって、思考や感情の整理をするのだ。


この映画を同年代の女性たちに観てもらいたい。それぞれたどってきた日々によって、感じることは全然違うだろうから、そんな話もしてみたいな。

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