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全てに価値があって、価値がない

ここに戻ってきたのはほぼ2年ぶりだ。ある真実を知り、その道を進むため、学び、試行錯誤をしてきたこの2年(それは今も続いている)。それまで外にひたすら放っていたエネルギーを守るため、内側に戻すため、いくつかの活動を止めていた。ちょっと長い冬眠だった。

原則やこの世の仕組みを知るほどに、今まで見てきた世界が実は本当ではなかったことが分かり、衝撃を受けた。この40数年間、私は何を見てきたのか? 仕方ない。それに気づかないように上手に隠されてきたことだったから。逆に今、それに触れることができたことに感謝せねば。

ただあまりのインパクトに、その真実を受け入れようとする自分と、めちゃくちゃ戸惑っている自分がいるのもまた事実。これから書いていくことは抽象的過ぎてうまく伝わらないかもしれない。でもいつか全体像が見え、多くの方に伝わるようになると信じて、書き進めようと思う。


今回は手放しの話。

私はこれまで仕事を愛し、キャリアを積む中で達成感や充実感、地位、評価、自己肯定感、生きていく自信を得てきた。小さい頃からずっと早く何者かになりたいと思ってきて、やっと何者かになれたと思えたのは仕事を通じてだった。

外に対して自分がどんな人かを伝えるとき、誰もが知る有名な番組のディレクターであること、映像キャリア20年以上であることをまず言ってきた。対外的に分かりやすいし、スゴイと言われやすくて承認欲求が満たされる。

そうしていつしかこのステータスこそが私の価値で、これを手放してしまったら、自分には何も価値がなくなってしまうのではないかと思うようになっていた。

だからずいぶん前からジャンプアップするときが来ているのに、しがみついてしまっている。

それゆえだろう。自分の中で身も心もなんだか動きが鈍いし、エネルギーがうまく回っていない感覚が常につきまとう。仕事はもちろん真摯に取り組んでいるけれど、モチベーションは常に凪。よし、やってやるぞ〜って奮い立つ瞬間が訪れない。冴えない日々である。


なぜそんな”常に凪”状態になってしまったのか。

この世(3次元世界)は仮想。幻。
そう聞いて、なんだ、じゃあ必死に生きてもしょうがないじゃん。一生懸命やっても意味がないじゃん。いつしかそんな風に考えるようになっていた。この世の全てが色褪せ、白けるのは当然だ。

それはとんでもない誤解だった。

私たちはこんな経験をしたいと自ら設定して、この仮想世界に生まれてきた、らしい。全ては知りたかった意思。全ては喜び。目の前に映る全ては自分の認識が作り出しているもの。言うなれば監督・脚本・スタッフ・キャスト、全てを自分が担っている映画(スクリーン)の世界を生きている。

だったら経験・体験したいものがあったら、どんどんやったらいい。今ココ、この瞬間、どんどん心を温め、燃やして、過ごせばいいのだ。

もしあと数十年、ずっと白けたまま生きるなら、それは壮大な「命の時間」のムダ遣い。危うかった。



そして、もう一つ。
この世は仮想で全てに価値はないが、それはイコール、全てに価値があるということを知った。

私がこれまで積み上げてきたキャリア・評価・信頼・稼ぎには価値があって、価値がない。
キャリアなし、評価なし、信頼なし、稼ぎなしの私にも価値があって、価値がない。
頑張っている自分も、頑張っていない自分も、価値は変わらない。
病気の自分も、健康な自分も同価値。

”どちらかの自分”に価値を置き続ける限り、そうじゃない自分を責めたり、卑下したりすることになるだろう。
でも全てに価値があって、価値がないと分かれば…全てを内包できる。


ようやく心が軽くなった。なんだか体も。
今、再創造のとき。






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