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【コラムエッセイ】笑った私の罪

私は今モヤモヤしている。
冗談じゃないくらいすごくモヤモヤしている。

そのモヤモヤについて書くにはまだ材料も時も一定の条件を満たしていない気もして書くべきではないと手を置き、いや、でも書かずには自分の精神衛生上よろしくないと再びスマホを手に取りを繰り返していた。

だが、思ったことをただ吐き出すくらい許されるだろうと書くことに決めた。


モヤモヤとはダウンタウンの松本人志さんのことである。

2023年のM−1も終わり、一気に世間は年末年越しモードに突入、切り替わっている。
松本人志、さすがの采配。
あの人を審査員から外してはいけない。
そんな声がSNSではあがっていた矢先のことだ。
ツイッターのタイムラインに信じられないYahooニュースが流れてきた。

文春が報じている時点でもう確信あってのことだと近年、まぁ最近の文春の正確さ、信頼度の高さに真偽の天秤は自ずと傾く。
とはいえ、時期尚早。記事が出て間もない今、何も断言も断定も論じることは出来ない。

そして、この報道が性加害であるがゆえ、この上なく繊細でセンシティブな問題(事件)である。

私は今、現時点で、一視聴者としての私の心情しか記さない。記せない。

ただ吐き出したいだけなのだ。



私が小学生から中学生の頃、とりあえず私が10歳として30年前に遡る。

クラスでは「昨日のごっつええ感じ見た?」が休み明けの月曜のお決まりの話題だった。

当時の日曜の夜は「ちびまる子ちゃん」から「サザエさん」「キテレツ大百科」「世界名作劇場」のアニメ2時間コースに「ダウンタウンのごっつええ感じ」が私のテレビメニューだった。

正直、「ごっつええ感じ」の所々には子供ながらに意味はわからないまでもなんだか気まずいネタが繰り広げられているのではないかという空気を察知していた。
だから親が子供に見せたくない番組にもランキングされていたのだろう。

その頃のお笑いといえば「ウッチャンナンチャン」か「とんねるず」か「ダウンタウン」かの3大コンビがしのぎを削っていた時代だった。(個人的意見)
それぞれに冠番組を持ちそれぞれの笑いのタイプが違った。

私はどちらかといえば「ウッチャンナンチャン」派だった。
理由はほのぼのとした笑いが落ち着いたからだ。
安心して見ていられるのがウッチャンナンチャンだった。

ダウンタウンは割とエキセントリックで過激で刺激的だったから言葉や仕草の意味はわからなくてもなんか生々しいのがキツイ時があった。それでも「ごっつええ感じ」はなんだか面白いから観ていた。

ツイッターでも何度か呟いたことのある「キャシー塚本」というキャラクター。
松本さんが架空の料理学校(四万十川料理学校)の講師(キャシー塚本)に扮したお料理番組のコントで私は爆笑していた。
ただ、その何が面白かったのかと問われれば大雑把に言動、アクションやノリがなんだか面白かったと答えるだろう。
そこに出てくるフレーズの意味など知らなかった頃である。
意味がわかるようになってから再び見た時
「え…かなりえげつない…」
「放送しても大丈夫だったの?」と思った。
篠原涼子さんにしていたことは今では完全アウトだ。

ただ、当時笑えていた名残りと不謹慎でも勢いが勝る憑依的な松本さんの扮するキャシー塚本というキャラクターにやはり笑ってしまう自分がいた。

そんな確実に誰かの心の傷になっていることをネタにしているとわかっていながら、それでも面白いと笑ってしまう自分に罪悪感と後ろめたさを感じながら。
時代だったんだと。
今なら放送出来ないけど…を盾にそういう時代だったから、そんな中で子供の頃に見ていたお笑いなんだから仕方ないと。

ただ、まだこの段階で今回の松本人志さんのスクープ、ネットの声はとんでもないことになっている。

当時の笑い(キャシー塚本のネタもあげられていた)が根本的に全否定されていた。仕方ないと思う。あれは当時でも問題になっていたと思う。

報道が真実なら許されない犯罪だ。権力を使い性加害をしたのなら弁解の余地はない。
あのネタに限らず責められるネタはいくらでもある。
責められても仕方ないことも確か。本当に確かなことだ。
が、ネットの声はとどまることを知らない部分もある。
ダウンタウンに留まらず、他のコンビの笑いや、過去のあらゆるお笑いの歴史も斬り捨てていた。

飛び火なのでは?とも思える声も多い。
なぜそこまで全ての笑いも完全否定するのか。
芋づる式に根絶やしになっている。
問題があればそれらもまとめて見直されるべきなのかもしれないのもわからなくはない。
が、その飛びつき方がやはりネットの恐ろしいところ。獲物を狙う獣のようだ。

悲劇は割と書ける。人を泣かせることはまだ容易い。だが、喜劇は誰にでも書けるものではない。人を笑わせることは難しい。
お笑いについて論じているネットの短文から長文まで、そこまで語っているのが凄いなと呆然となった。
笑いの仕組みを論じてあれはダメ。これもダメ。というか今までの日本のお笑い芸自体差別やタブーの上に成り立っていたものと完全否定されていた。
それらの声を全て踏まえたらお笑いってどう作るものなんだろう…に、陥った。

限られた食材で無限の品数を作ることは不可能だと思う。
勿論かつて時代だからという盾に守られていた過去の悪しき笑いは否定されるものだが。
ネットには極端な制限がこういう渦中では見受けられる。

そして核心のモヤモヤというのは、それらを面白いと笑っていた自分を含めあの月曜のクラスで盛り上がったクラスメイトとの共感や思い出までも全否定しなくてはいけないのかという罪悪感めいたものにある。
共犯になっていたという罪悪感めいたもの。

いくら小学生であったとはいえ、そして分別出来る大人になってもあれをお笑いとして面白いと笑っていた自分を断罪せねばならぬのかと。

なんとも複雑に、なんとも向き合えないモヤモヤがずーっとこの報道からつづいて居座っている。

そして、菅田将暉さんがダウンタウンの特に松本人志のお笑い(ごっつええ感じ)にとてつもなく影響を受け、ある番組で共演が叶った時、あまりにも憧れがすぎ感極まり涙していたことを思い出した。
緊張してしっかり話せないと困るのであらかじめ手紙を書いてきたと…。
声を震わせ、途中で読めなくなり、泣きながら松本人志さんに好きだと思いを伝えていた菅田将暉さんのことを思うと心穏やかではいられない。

芸人松本人志に憧れて同じ芸人を目指してきた人も数え切れないほどいる。
この報道でまずそのことがよぎった。
あの頃、面白いと笑っていた私たちの一人…。


ただそれを吐き出したくて書いた。

無責任なことは言えないし、私の動揺だけを書いたつもりである。
私もこれから先、この心を捏ねくって四方八方に目を向けることになるだろう。
過去にそれらの笑いを笑ってしまったことの罪に。


ちなみに私は「ごっつええ感じ」の終焉期にはもう見ていなかった。理由は面白くなかったからだ。詳しく書くと「とかげのおっさん」というネタあたりから単純につまらないと感じるようになり見なくなった。しばらくして番組はなくなった。次にダウンタウンを見るようになるのは「Hey Hey Hey」という音楽番組である。
歌手やアイドル、バンドメンバーに浜ちゃんが頭を叩き松本さんがボケまくるのは新しい音楽番組の形で面白く再びダウンタウンを見るようになった。

2023年があと3日もない内に終わる。
この1年、たくさん崩れた。
崩れて崩れて空が大きくなった。
江戸幕府は260年、よくもったものだ。


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