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【山羊日記#6使う勇気】

noteへの詩の掲載はおんぼら~っと(石川県の方言でのんびりの意味)させてもらってます。
それでもなにかしらの形で詩は毎日書いてはいるんですよ。
シナリオと詩を組み合わせた今手掛けている創作や、出来上がらなくても途中のものや、スマホにしてから(特にnoteをはじめてから)下書きという機能を使うようになり、いつでもどこでも上書きしたりと。
言葉は線香花火みたいにゆーっくり最後はフェイドアウトしていくので書いておかないと本当、思い出せないんです。
昨夜は夜中3時くらいだったか目が覚めてブツブツ寝言を既に起きているのに呟いてました。
(結構あるんですが)
すぐにスマホに吹き込むように書き記し(ねぼけて動作がぎこちないけど)朝、そういえばなにかを書いたことを思い出しメモを見てみると、なんでこんなこと思い付いたよ、俺…て(苦笑)
紛れもない自分の残した言葉なんだけど無意識ってこわいなと思う瞬間でもあります。
そんな本能のままに(例えばコンプライアンスとかモラルとか色んなしがらみをかんがみて判断する言葉のチョイスがなければ)心底書きたいことを書けるのかなと思ったりします。

要するに勇気がないんです。

他人にはリスキー度30のハードルが自分には50だったり。(この数字が高ければ高いほど使った後の賛否を気にしてしまう)

そんなことくらいがそんなことくらいと思えないから使うことが怖くて出来ない。
諦めて使わなかった言葉は山のようにあります。
言葉に責任を持つ。
に、縛られるのは物書きとしては必要不可欠で大切なことだと思います。むしろ、縛られるべきかなと。
でも、表現の幅を狭めることは(しかも取り越し苦労で)一歩先へは進めないまま終わってしまう。
その葛藤と常にせめぎあってます。

先日オザワミツグさんの脚本、監督の連続YouTube小説『わたしが死ぬ夢を悲しいと思ってしまう』全5話のドラマを鑑賞しました。
タイムループやオカルティックな現象や心情模様を小気味良く映像と文字の編集が独特な色使いや動きでストーリーが展開されていくのだが、その第2話でクールなのに的確な発言をする愛川数間(両角颯)が公園で呟いたセリフに自分の心の声で
「うわぁ~、このチョイスは真似できない。でも、それだよ~」と、悶えました。

この公園でのシーン。
数間は言います。


『自分で自分を祝うって、なんか○○○○みたいだな』

と、ナチュラルになんでもないような独り言を呟くように。
(○○○○が自分の中では文字として表現する勇気の出ないハードルになっている)

もちろん放送禁止用語でもなんでもない言葉です。
それすらをセンシティブな言葉と捉え慎重に扱わねばと焦る道徳心が線引きの邪魔をする。
この先、必ず詰まってしまう。こんなとこで立ち止まっていては。

今縁あって書き上げなければいけない(依頼があったわけでもない)シナリオと向かい合ってますが、自分のシナリオの癖はあるし、それは大切にしたい。
無理して柄にもない設定に挑戦するつもりもない。
古くさければそれが自分のシナリオの味なんだと受け入れる。
でも、明らかに
「今、抵抗感じてるなぁ」って自覚する時がある。
それはその言葉を使うことによって不快に感じる人がいるかもしれない、とか、傷つく人がいるかもしれない、とか、考えすぎてる証だと思う。
きっと、そんなこといいながらそんな言葉を使う自分がどう思われるのかが不安なだけなのかもしれない。

表現する勇気、まだまだひよっこ。

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