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【山羊日記#3詩とシナリオ】

方言愛を解放したくなった。
私の知っている宮尾登美子作品は映画にしてもTVドラマにしても高知県の土佐弁で脚本が作られている。
作中で聞きなれない言葉が出てくることもあった。でも、それは話の流れで意味を想像できたし、見終わった後に調べて確かめた。
だから、行ったことのない高知県の言葉なのに多少詳しい方だと自負している。
全国的に土佐弁は認知度が高い。
坂本龍馬や歴史の偉人が多いからということもあるだろう。

そこでわがふるさと、石川県。
正直言って石川弁の認知度は低いだろう。
土佐弁ほど強弱がなくイントネーションもぼやけている。
でも、おもしろいのだ、石川弁。
可愛げもあって、のんびりしていて。

昔シナリオを書いていた時は方言をふせて無理に標準語で書いていた。
書きながらむずがゆくなっていたのを覚えている。
地方で暮らすものにとって標準語(東京弁)はかっこよすぎるのである。
全てトレンディドラマに思えてしまう。
この感覚はおしゃれな外国映画の字幕を読んでいるのに似ている。

そして、詩を書いている今だからあの頃よりも肩の力を抜いてシナリオと付き合える気がしている。

本来なら設定が地元なのに台詞はなぜか標準語。
そんな、作品を昔書いたことがある。
そのシナリオはだいすきだった祖父母の為に書いた作品だった。
宮尾登美子作品のように堂々と石川県の方言で書き直してみたくなった。
そして、詩を作品に織り交ぜてみたいと思った。
だって、私は作詩家だから。

詩を書くものが書くシナリオ。
当て書きの俳優さんたちは大体決まっている。
私は改めて書き終えていたはずのその作品を読み直した。
全然なっていなかった。
書き終えていることにしてはいけない出来だった。
これを完成としたまま放置しては祖父母に申し訳ないと思った。
あれから何年、いや、十数年経ったのだろう。
少しは成長したということなのだろうか。
(そもそも詩とシナリオは別物ではあるが)

きっと、こんな風に大切に思えるシナリオはこの作品だけだと思う。
なにか通過儀礼とまではいかないが、心の区切りにひとつ向き合わなければいけない気がしている。
完成しても日の目をみるわけでもない。
でも、書き直している時は当て書きの俳優さんたちが頭の中で懸命に生きてくれるだろう。

完成はいつになるのか……

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