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【エッセイ】歌詞をむさぼっていたあの頃

今となっては避けて使わない表現だが、10代の多感(と、される)時期から私は、詩に救いを求めていた。

時は流れいつしか私は書く側になっていた。
そして書く側になってはっきりわかったことがあった。

人を救う為に詩を書いてなどいないことを。

そもそも自分の書いた詩で人を救えるだなんて烏滸がましい考えは、はじめから持ってなどいなかった。

だが10代の、あの頃の私は歌に、特にその歌詞に救われていたのは事実であった。

歌詞だけではない。
映画や本やインプットできる創作物からその時どきの悩みや葛藤、苦しみを自分の中だけで解決し、乗り越えようと必死にすがりついていた。
貪るように、何か心を楽にするヒントはないかと漁っていた。

「好きな歌はメロディ優先?歌詞の内容?」
何人もの友人にそんな質問をしていた。
人それぞれの好きな歌の理由を知りたかった。
大抵の返答はメロディ重視だった。ノレるかどうかで好きになると。
私は断然歌詞重視派だった。
それで救ってくれそうないい歌に出会えたら歌詞カードを追いながら自分の血肉にした。苦しみを和らげる薬にした。

当時の歌を聴くと鮮明にあの頃の自分が蘇ってくる。吹けば飛んでいってしまいそうな頼りない自分が目の前に現れる。


Twitterのタイムラインにnote公式さんが紹介する作詞家のATOZismさんの記事に興味が湧き拝読した。
『作詞家という職業の謎』と題したその記事は光陰矢のごとく私のクエスチョンマークを貫いた。

著名な小説家や映画監督の名前ならそれなりに出てくるだろう。
が、作詞家となると詩に携わる者であってもどのくらい挙げられるだろう…。

私も作詞家という職業について教わりたいことは山程あった。
わからないことばかりだった。
詩で生活することは漢字を変えて「作詞家」でなければ成り立たないと思っていたし思っている。
一握りの「作詞家」の、その上を行くひとつまみの「詩人」なのではないか。
職業を詩人と名乗れる者はある意味仙人の域である。
現実に「作詞」を職業にするなら音楽の傍に並んでいつの世も大衆が求めるその歌の詩、すなわち歌詞が10代だった私も、私と同じ感覚で享受していた者たちにとっての「詩」だったのではないだろうか。
それでも作詞家ってどうやったらなれるのか漠然としていて、掴めない話でずっとそこにあり続けていた。
note公式さんの紹介ツイートのおかげでATOZismさんの存在を認識することが出来た。
これは私にとってとても大きな意味を持っていた。

ATOZismさんが携わってきたこれまでの楽曲を知った。
錚々たる顔ぶれにとにかく驚いた。
中でも私の思い出の一曲。
V6さんの『ありがとうのうた』は当時20歳の私の生活のあらゆる時間や場所の匂いや色や声や顔を一瞬にして思い出させてくれた。

何につまずき、何にぶち当たっていたか、正直辛いことばかり蘇ってくる。
その分、必死に藁をもすがる思いで歌詞を貪り漁っていた証なのだ。

〽僕は少し疲れてたかなあ
君がいてくれて救われたんだ


そう、救われたんだ。
私はこの歌に救われた。
時間が止まったままの心残りもある。
まだ、本当のありがとうを言えていないまま今を生きている。
当時はどんな気持ちでこの歌に心を穏やかにしてもらっていたんだろう。
些細なことが些細ではなく、剥き出しの皮膚で大粒の雨から身を守っていた。傘などさす余裕もなかった。
この歌をMDにダビングしてウォークマンで聴きながら涙で震えてラーメンを食べた。
Eメールでさよならをした。
長い別れになるなんて思いもしないで。
送信を押した。

〽ありがとうと言わせて欲しい
たとえば何年経っても
きっと変わらず僕はまだ
今日を覚えているよ



私は覚えている。
あれから20年近く経っても忘れていない。
あの時に聴いて感じた慰めの歌詞は今では励ましの歌詞になっている。
私はそっと包み込まれている。
いつかありがとうと言わせてもらえる日までこの気持ちを忘れない。

こんなに優しい気持ちにしてくれる歌詞は当時、悩みのトンネルの只中にいた私を救ってくれたという事実は今でも恥など気にせずこの表現を使ってもいいはずだ。救ってくれたと。

救うというのは受け手に委ねられている自由な解釈だから。
あの頃、歌詞に救われた私がいて、今詩を書いている私がいる。


〽僕は見つけられた…

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