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24-7 to heaven #3

 コンソールゲームのクリエイターである『僕』と、そのアシスタントで不思議な女の子の『彼女』。そして、もういない『君』。その気になれば『僕』だって変われるんだ。子供のように得意げに『僕』は笑ってみる。


***


 「最下位は乙女座のあなた! バラ刺繍のガーゼハンカチがお守り!」

 ……そんなの、おばあちゃんくらいしか持ってないんじゃないの。
 テレビに真顔でつっこむクラウディ・ウェンズデー。


「自転車、お好きでしたっけ?」
「ううん。買ったばっかり」

 うわぁ、ロードバイクだ。僕の返事に彼女は感慨深い声をあげた。
 どんよりと曇った朝。オフィスビルの裏玄関で、僕は彼女にばったりと会った。僕が珍しく早い時間に来たせいだ。午前10時より少し前は、表玄関は別の会社の社員たちでごった返す。エレベータの前で立ち往生するなんて事態に発展することがあるのだ。だから彼女は裏玄関に回ってきたのだろうが、僕は自宅からの距離が近いという理由だけで裏玄関を愛好している。とはいえ、彼女は珍しいものを見たという顔でエレベータのボタンを押した。

「なんか……今日早くないですか?」
「そうだね。僕も驚いてる。自転車って、思った以上に早く着くんだな」

 はあ。彼女の気の抜けた返事が、エレベータの到着音に重なる。
 彼女のこうした反応はもっともだ。フレックス勤務できちんと早めに来る彼女にとっては、僕はなんとなく昼近くに来るイメージなのだろう。事実、『裁量労働制』というありがたいのかありがたくないのかわからない(残業代の取り扱いでみんな揉めているようだが)制度のおかげで、僕の出社時間はすこぶる遅い。自由に来て、仕事さえ片付ければ帰っていいのだから、早起きが苦手な僕が朝に頑張る道理などない。一応、僕たちゲーム会社のプランナーも一端の『専門職』としてこの制度が適用されている。とはいえ、乱れに乱れた社員の勤怠を見て、社長の鶴の一声があったらしい。『裁量労働制とはいえ、午前11時出社を原則とする。それ以降は遅刻とみなす』──このルールのおかげで、僕の所属ライン(うちの会社はプロダクトごとにチーム分けがなされ、それをラインと呼ぶ)にも勤務形態改善のメスが入ったわけだ。実に面倒なことをしてくれる。勤務形態を改善する前に、ディレクターとプロデューサーの仲を改善した方がよほど早い。いや、むしろどちらでもいいから、きちんとチームの舵取りをしてくれさえすればいい。クリエイティブ関係の職業で、時間をかけた分だけより良いアイデアが出るというのは聞いたことがない。時間に応じて変わるのは『品質』くらいで、ゲームシステムなどは時間をかけてもダメなものはダメだ。まずはコアとなるコンセプトがしっかりとあるかどうか。そして、それに則った舵取りをトップが行えるかどうか。それができない分だけ下の人間は疲弊し、作業効率もプロダクトのクオリティもどんどん下がっていく。ゴールが示されないままデスマーチをさせられるのだから、当然といえば当然だろう。勤務形態など、この際どうでもいいのだ。平社員の身からすれば、ディレクションさえしっかりしてくれればプロダクトは完成させられる。そう声を大にして言いたい。決して朝寝坊が怖いわけでも、布団とジッコンの仲というわけでもない。

 ガコンガコン。ゴウンゴウン。

 不穏な音がする密閉空間に、ロードバイクと僕と彼女。違和感しかない。
 装飾のない簡素な造りの業務用エレベータの中で、彼女は物珍しそうにロードバイクの空色のフレームをなぞった。

「また、なんで突然……ロードバイクなんです?」

 チラと視線を上げて、彼女は探るように言った。彼女の中で、僕は最もロードバイクに縁遠い人間だったのかもしれない。
 さて、どこから話そうか。僕は顎を撫でた。
 僕がこのロードバイクを購入したのは三日前、出会ったのは一週間前だ。近所にサイクリングショップがあったのがいけなかった。一週間前の夜、近頃めっきり気に入ってしまったアリシア・キーズの歌を聞きながら、会社と自宅の間にあるスタンド・ビア・バーに入り、美味いクラフトビールを二杯飲んだ多幸感に包まれながら僕は帰途についていた。折しも、その日は妙に早く退社しており(というか、仕事が山積みすぎてさすがの僕も投げ出した)、初めてサイクリングショップがまだ開いている時間に前を通ることになったのだ。そこで、僕は空色のフレームのロードバイクを見かけた。なんとなく普段と違うことがしたくて、閉店間際の店をぐるりと歩く僕の目に、それは殊更鮮やかに映った。じっとロードバイクを見つめる僕に、店員のお兄さんは人好きのする顔で笑った。
 これ、在庫最後の一台なんですよ。すごい勢いで売れちゃって。
 へえ、流行ってるんですね。
 そんなどうでもいい会話をしたことを覚えている。そして、帰宅してから興味本位でそのロードバイクについて調べたら、二十万だか三十万だかして、びっくりした僕は椅子から転げ落ちた。疲労と酔いのせいもあったけれど、本格的に椅子から落ちて後頭部に盛大なたんこぶを作ったのである。
 こんなもの、なんでポンポン買ってるんだ。世間の人はどこかおかしいんじゃないか? いや、買う余裕があるのが普通か? 賃金格差。理不尽。
 そんなことをぐるぐると考えながら、僕はソファの上に放り投げたままの洗濯物にダイブした。何か動画でも垂れ流しにして、頭のネジを緩めたい。僕は半分睡魔に襲われながらもapple TVを起動して、テレビ画面に適当にユーチューブの動画を流し始めた。そこで僕は、ある動画に出会う。睡魔をおしのける勢いで、なぜかABBAのダンシング・クイーンが頭の中で高らかに鳴り響いた。馬鹿みたいなことを言っているように聞こえるだろうが、事実だ。この日の僕には、それくらい強烈な衝撃だった。
 だから、ロードバイク購入の原因を端的に語るなら、こう言うしかない。

「──…ハイファイブの動画を見たから、かなぁ」
「ハイファイブ?」
「ハイタッチだよ。タクシー待ちで手をあげてる人に、ハイタッチすんの」
「タクシー待ちに、ハイタッチ」
「そう。ニューヨークでさ、自転車乗ってね。通りを走りながらバーって」
「バーって」
「あまりにもいい顔でやってて、なんかニューヨークらしいと思って」
「ニューヨーク」

 オウムのように僕の言葉を繰り返して、彼女は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。いつもならその担当は僕だ。ちょっとしたレア感がひどく心地いい。まるで、鬼の首をとったかのような気持ち。してやったり感。だから、もう一つダメ押しをしようと思った。コンボを入れるなら、フルコンボだ。格闘ゲームなら誰だってそうする。僕は、一度でいいから彼女を黙らせてみたかったのだ。それが何かのきっかけになる、そんな気がしたから。

「これ、準備なんだよ。ニューヨーカーになる時のための」
「そのために……ロードバイクを?」
「そう。君が言ったんでしょう、いっそ海外とかどうですって」

 僕がしれっと言えば、口をあんぐりと開けて彼女は間抜けな顔になった。
 ──僕も彼女にこんな顔をさせられるのか。なんて面白いんだろう。
 モーター音の響く鉄の個室は、ランプが灯るごとに上昇していく。こみあがる笑みを噛み殺す僕の横で、彼女は珍しく不安そうな顔をした。

「ニューヨークに行っちゃうんですか? ……会社辞めて?」
「かもしれないね。でも、パリかもしれないし、レイキャビクかもしれない。カトマンズかもしれないよね」

 チンと音を立ててエレベータが止まり、扉が開く。二人そろってエレベータを降りた。廊下の窓からは、どんよりと曇った東京の空が見える。でも、その雲の向こうにはわずかに光が見えている。
 馬鹿馬鹿しいほど単純な話だ。僕は、なんでもいいから変わるきっかけが欲しかっただけなのだろう。それは、赤信号に一度も引っかからなかったとか、卵の黄身が双子だったとか、そんなどうでもいいことでもよかったのだ。あのハイファイブの動画が、それを僕に気づかせた。憂鬱な顔でタクシーを待つ重役風のおじさんも、キャリアウーマンも、たった一つの馬鹿馬鹿しい出来事でその表情が劇的に変わる。一瞬驚いて、怪訝な顔をした後、みんな笑うのだ。困ったように眉尻を下げて。お腹を抱えて。手を叩いて。それぞれの笑い方で、みんな笑っていた。僕はこの動画を見て、どうしてかわからないけれど、世界が変わる瞬間を見た気がした。きっとそれは、僕自身が似たような経験をしたせいだ。
 だから、きっかけをくれた彼女に、心からの感謝と誠意を。
 そして、君には遅刻のメッセージを。
 ──まだ、君のところへは行けそうにない。ごめんね。

 口をつぐんだ僕に、彼女の瞳は戸惑うように揺れる。僕があまり冗談を言うタイプではないと知っているからだ。いつもの自信満々な顔はどうしたんだ、と少し毒づきたくなった。自分のせいで僕が会社を辞めたらどうしよう、なんて本気で考えているのだろう。彼女は意外と小心者なのかもしれない。これでチーフのポストが一つ空く、くらいの気概を持ってもいいのに。そんな無茶苦茶なことを考えていると、自然に口角が上がった。
 ああ、変だな。楽しい。

「気づいたんだよ。実は、そんなに時間ってないんだ。外国への移住が目的だとして、いつか行けるかもなんて言ってるだけじゃきっと行けやしない。住むなんて、もっと無理な話でしょう」
「それは、そうですけど……」
「第一、移住先が本当に自分に合ってるのかもわからない。だったらさ、候補地は多い方がいいと思うんだよね」
「い、いや……でも、そんな簡単に移住なんて──」
「うん。だから、準備をしなきゃいけない。しかも、たくさんの候補地分の準備をしなきゃいけないんだ。そのせいで、僕は毎日忙しいんだよ」
「どうして、その……移住したいんです? 何か会社で嫌なこととか……?」

 困った顔で小さくつぶやいた彼女に、こらえきれずに僕は吹き出した。変なところで素直な子だ。僕の話を丸ごと信じているらしい。僕の真顔は、なかなかどうして有効なようだ。真顔で話せば、隣のタバコ屋のおばさんと結婚します、なんて嘘も数人は信じてくれるかもしれない。
 でも、今回は。すべてが嘘なわけじゃない。彼女は僕の恩人だ。誠意を持って、僕の秘密を少しだけ明かそう。

「僕らは、今生きてる場所ともう一つの場所にしか住めないんだよ。今生きてる場所を変えない限り、二つの場所でしか生きられないってこと。それじゃ、味気ないでしょう」
「もう一つの場所、ですか?」
「そう。僕らが最後に移住する場所って、決まってるから」
「どこに……?」

 不思議な顔をして首をかしげる彼女に、僕は空を指差した。
 彼女は眉をひょいと上げたのち、一拍の間を置いて盛大に吹き出した。

「うっわ……キザなこと真顔で……! 本気で言ってるんです!?」
「本気以外に何があるの。僕はいつでも大真面目ですけど」
「ちょ、もう、なんっ……! キャラ変更がっ……甚だしい……!!」

 彼女は腹が捻じ切れると言わんばかりに、バンバンとロードバイクのサドルを叩いて爆笑した。途切れ途切れに呟かれた言葉から察するに、僕にはありえないセリフを言った、キザすぎる──ということらしい。大体、キャラ変更って、彼女は僕をどういうキャラだと思っていたのだろうか。膝を突き合わせて聞いてみたいところではある。
 そんな僕のモヤモヤとした思考をよそに、彼女は本格的に涙目になりながら前かがみで歩いていく。途中、カーペットに足を取られて彼女は盛大に転んだ。それでも、彼女の笑いは止まらない。笑上戸というやつらしい。酒は一滴たりとも入っていないけれど。

「あの……でも、だからって……その理由でロードバイクは斬新すぎ……! ニューヨーカーとロードバイク……全っ然関係ないんですけど……!!」
「そう? まぁ、ヘルシンキに移住するなら、サウナ通いも始めなきゃね」

 軽口を叩く僕の横で、彼女は顔をくしゃくしゃにしたままオフィスのドアを開けた。眼前には相変わらずの鬱屈とした開発現場が広がっている。それでも、グレースケールの明度は少し上がった気がする。

「もしかして、実は形から入るタイプですか?」

 どこか聞き覚えのある言葉に、僕は声をあげて笑った。
 どうやら、天国はまだ遠い。


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