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総計44回の「そうして」「それから」

全部で44回
太宰治の『トカトントン』に出てくる「そうして」と「それから」の合計数だ。ぼくも暇だ。いちいち数えた。
しつこいようだが、この記事でも『トカトントン』についてとりあげる。
(前回の記事は下記リンク)


『トカトントン』は決して長い小説ではない。
文庫本のページにしてわずか21ページの短編だ。
 
そんな短い文章のなかで、「そうして」が34回「それから」が10回も出てくる。やや異常だ。平均して1ページに2回も「そうして」「それから」が出てくる。いくらなんでも「接続詞」すぎだろう。
 
試みに問題の文章を、すこし抜粋してみる。
『トカトントン』の主人公は郵便局に勤めており、そこへ貯金にやってきた時田花江という女性に片思いをする。引用箇所は、郵便局長である伯父が花江に冗談を言い、それに対して花江が「つまらない」と、にべもなく答える場面からだ。これだけでは内容が伝わらないと思うが、それはさておき、「そうして」に注目してもらいたい。

 「つまらない」
 と言います。そうして、じっさい、つまらなそうな顔をして言います。ヴァン・ダイクの画の、女の顔でなく、貴公子の顔に似た顔をしています。時田花江という名前です。貯金帳にそう書いてあるんです。以前は、宮城県にいたようで、貯金帳の住所欄には、以前のその宮城県の住所も書かれていて、そうして赤線で消されて、その傍にここの新しい住所が書き込まれています。女の局員たちの噂では、なんでも、宮城県のほうで戦災に遭って、無条件降伏直前に、この部落へひょっこりやって来た女で、あの旅館のおかみさんの遠い血筋のものだとか、そうして身持ちがよろしくないようで、(以下略)
【『斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 外七篇』太宰治 文春文庫 p432
  引用作『トカトントン』】

言葉の重複は果たして悪か?

 
文章作法の本などを読むと、よく、「重複は避けるべし」みたいなことが書いてある。ぼくもその意見にはおおむね賛成だ。
 
自分の書いた文章を読みかえして、同じ語句が繰り返されているのを見ると、語彙の貧弱ぶりを露呈しているようで、なんだか気恥ずかしくなってしまう。

他人の書いたものでも事情はおなじだ。同じ言葉が多用されていると、そのこと自体が気になってしまい、内容が頭に入ってこなくなる。
 
しかし、文豪にはそれが許されている。
 
たとえば、太宰の天敵でもある志賀直哉。
『城の崎にて』は名文としてまかり通っている。国語の教科書にも掲載されている。志賀の文章を指して、すごいすごいとみんながもてはやしている。
漱石と芥川の以下のようなやり取りは有名だ。


 
芥川:「志賀さんのような文章を、私はとても書けない。ああいう文章はどうやったら書けるのですか。」

漱石:「あれは文章を書こうとしているのではなく、自分の思ったままを書こうとしているのだろう。私にもああいうのは書けない。」
 

書けなくていいのだ。
「自分の思ったままを書こうとし」た結果が、「淋しい」「静か」の濫発であり、インフレである。
『トカトントン』の「そうして」「それから」みたく、いちいち数はかぞえていないが、『城の崎にて』の「淋しい」箇所を示しておこう。

 夕方の食事前にはよくこの路を歩いて来た。冷々とした夕方、淋しい秋の山峡を小さい清い流れについて行く時考える事はやはり沈んだ事が多かった。淋しい考えだった。しかしそれには静かないい気持ちがある。自分はよく怪我の事を考えた。一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。祖父や母の死骸が傍にある。それももうお互に何の交渉もなく、――こんな事が想い浮ぶ。それは淋しいが、それほどに自分を恐怖させない考だった。
【『小僧の神様 他十篇』 志賀直哉 岩波文庫 p108-p109
引用作は『城の崎にて』】

小説の神様と崇められている志賀直哉も、平気で語彙を重複して使用している。いくら淋しくても、こんなに短いスパンで「淋しい」を三回も放っていたら、本当に淋しいのかどうか疑わしくなってしまう。これでは老人の繰り言だ。

しかし、志賀直哉は小説の神様だから許されてしまう。

ぼくのような素人が同じ塩梅で同一語句を連発していたら、ただ単調な文章になるだけで、馬鹿にされるのがオチだろう。馬鹿の一つ覚えで「淋しい」「淋しい」と書いて称賛されるのは文豪だけだ。

一般人は、やはり、なるべく重複はさけるべきだろう。

太宰治の潔い言い訳


さて、「そうして」「それから」を惜しげもなく垂れ流している太宰だが、さすがは文豪、無自覚に垂れ流しているだけではない。ちゃっかり作中で「そうして」「それから」の多用について言及し、卑下し、逆手にとっているのだ。潔い。
淋しいを羅列して、その後始末をせず、しらを切っている志賀とは違う。

以下、その弁疏を引用しておこう。

 そうしてそれから、(私の文章には、ずいぶん、そうしてそれからが多いでしょう? これもやはり頭の悪い男の文章の特色でしょうかしら。自分でも大いに気になるのですが、でも、つい自然に出てしまうので、泣き寝入りです)そうしてそれから、私は、コイをはじめたのです。
【『斜陽 人間失格 桜桃 走れメロス 外七篇』太宰治 文春文庫 p431
  引用作『トカトントン』】

素直でいい。が、ずるい気もする。これは素人では使えない手だ。
うっかりぼくなんかも真似をして、文中で自身の文体について言及してしまった暁には、「だったら最初っからその点を意識して文章を書け」などと叱責されてしまうだろう。
 
これまた文豪にしてなせる業。なんともやるせない。
文章を書くというのは一筋縄ではいかないようだ。

以上。

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