女が男に学ぶより、男が女に学ぶと不思議がられる理由

世の中は、とりあえず男性と女性で成り立っています。
でも、男らしい男、女らしい女ばかりとは限りません。
中には、性別を変えたり、変えようと思う人もいます。

今は子育てにおいても、性差にこだわりすぎない向き合い方が推奨される時代。
男が女から学び、女が男から学ぶのは、自然なことであり、ある意味必然ともいえるでしょう。

でも、不思議なことに、ビジネスの場面でも、地域社会でも、学校教育の場においても、女性が男性から学び取り入れる機会は多いけれども、逆に男性が女性から学び取り入れる場面はまだまだ少ないのかもしれません。

少なくともイメージとしては、女性が男性にあやかるのは自然だけれども、男性が女性から学びを得ることには一定の違和感を持つ傾向があるように思います。

このような傾向は、年長者になるほど、地方の保守的な風土になるほど、強まっていくように感じます。

長幼の序にしたがって、年少者が年長者を敬い慕うのは当然のことだと思いますが、男性と女性はそもそも対等の人間なのであり、年下の男性が年上の女性から学ぶのを躊躇したり、部下である男性が上司である女性を慕うのをためらうとしたら、そうした感覚のほうがむしろ不自然だといえるでしょう。


これにはさまざまな理由や背景があると思いますが、その最たるものは「性別二元論」だと思います。

かつての寺子屋における修養でもそうですが、学齢期になった子どもは男女に分けられ、互いに交わってはいけないと教えられることから、大人になるための教育がスタートします。このような男女別の教育システムは、キリスト教文化圏でもおおよそ同じであり、むしろより顕著に二元論の教えが広められてきたといえます。

「性別二元論」には、2つの側面があります。

①文字通り、男女はそもそも二項対立的な存在であり、互いに交差してはいけないという教え。

②男性的なものは女性的なものより社会的に優位な立ち位置にあるという、ある種のミソジニー的な考え方。

①と②は、互いに補いあう関係にあって、表面的には①が社会的なシステムとして多くの歴史において共有されてきていますが、むしろ本質は②にあると考えることができます。

フェミニズム的な理解によれば、社会を男女二つに分けること自体がヒエラルキーを含んでおり、男性を優位に、女性を劣位に置く法や制度が働く中で、ミソジニ―的な抑圧が発生してきたと説明されます。

このような見方や見解がすべて正しいとは限りませんが、「性別二元論」が長い歴史の中でとうとうと底流を支配してきており、男女の間にある種のヒエラルキーを生じさせてきたことは、おおむね異論のない事実と受け止められるでしょう。


もうひとつ、これに関連して、「男性性」と「女性性」についての理解のされ方があります。

一般的に「男性性」とは、本源的なもので、自らの身体の内側から湧いてくるものだと考えられます。それが、目の前に立ちはだかる対象にはつらつと対峙する男性の勇ましさや、まわりの人たちを取りまとめてリーダシップを発揮する包容力や往々しさを形づくっていくとみなされます。

それに対して「女性性」は、「男性性」と比べると人工的なもので、生まれもった身体に由来するというよりは、後天的に身に付けるものによって形づけられると理解されます。メイクによって理想の風貌へと変身し、スカートやワンピースを身にまとうことでよりフェミニンな雰囲気を目指すのが、女性性の典型だと見なされます。

このような受け止められ方が、男性と女性とは決して交わり得ない存在であり、なおかつ男性性は女性性よりも優位な位置づけにあり、女性性は男性性よりも劣後する存在だという観念を強力に後押ししてきたと考えられるでしょう。

一般的に男性がメイクやスカートのようなアイテムを帯びることに拒絶感や違和感を覚えるのは、それらが女性性を象徴するアイテムにほかならないからであり、(優位を占める)男性が(劣後する)女性に近づくのは、自らの主体性や優位性を損なうという恐怖心に駆られる所以だといえます。



ひるがえって、今の社会の現状を見てみると、男性と女性とが協働するのが当たり前の世の中です。ビジネスの場において女性たちが男性と変わらず向上心をもって能力を発揮しているのはもちろん、家庭においても子育てに父親が積極的にかかわるのは当然の時代であり、地域社会や学校教育などでも男女が分け隔てなく対等の立場で分かち合い、支え合っている光景がごくごく自然です。

かつての家父長的なシステムの行き過ぎた面が指摘されて久しいですが、ある種のマインド面はともかく社会の現状においては、男性が優位を占めて、女性が劣後するといった発想は、ほぼ確実なまでに消滅しているといえるでしょう。

過去の歴史について全否定したり根拠なくイメージで批判したりすることは慎むべきですが、少なくとも男性と女性との社会的な関係性については、私たちの社会の実情や今後向かうであろう方向と、現に私たちがイメージし観念しているものとの間に、相当の乖離が起こり、空間が生じてしまっているように思います。


私の意見。

単純に前提を疑う思考が乏しいことによって、アップデートが遅れているだけなのでは。このように思います。

男性諸氏は、イメージに支配されることなく、まわりに左右されすぎることなく、もっともっと自分自身の思うままに、振る舞ってみては?

それが、女性から学び、取り入れることなのであれば、それはそれで大いに価値がある。

誰かから強制されることではないけれども、まわりを見まわして、すべて男性的なものが価値があって、すべて女性的なものは価値がないということはありえないはず。

できる女性から、今まで以上に素直に学ぶ姿を見せる。たったそれだけの勇気が、大げさでなく世の中を変えていくような気がします。

ジェンダーをめぐる、ソフト面のアップデート。

今ほどそれが大事な時代はないのかもしれません。


学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。