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なぜ男性=スーツ、女性=カジュアル?

今年の9月も異常な暑さですね。
さすがに3連休が終わると徐々に秋めいてくるようですが、都内でも35度に迫るなど、日中の体感はむしろお盆よりも暑いくらい。

街中を歩いていると、まるでギラギラした真夏の光景のよう。涼しげなノースリーブのトップスやワンピに、サングラスに、色鮮やかな日傘の数々。足元も、スニーカーやちょっと早めのブーツだけじゃなくて、まだまだサンダルの人も多くて、まさに多種多様ですね。

でも男性に目を移してみると、さすがにスーツ姿の人は少なくても、やはりワイシャツを着ている人が多いし、Tシャツにハーフパンツという人も少なくないけど、デザインとか色合いはやはり定番系が多いですね。

男性でノースリーブという人もいるけど、なかなかワンピースという人は見かけないから、この暑さの中で夏素材のワンピが最強だということを知らない人が多いのだと思います。



もちろん、人にはよると思うけど、女性よりも男性のほうが身体が大きくてがっちりした人が多いから、やはり一般的には暑がりな人が多いはずです。実際、大粒の汗を流して、タオルでふいてもまだ収まらずに、止まらずにいるという光景もよく目にします。

この点、女性のほうが寒がりさんが多いから、昼間は暑いし可愛いからとノースリーブを着ても、冷房や朝夕の冷えがこわいからと、上着やカーディガンが手放せないという人も多いです。実際、電車やデパートの中とかは、寒くていっきに身体がふるえることも多いですね。

暑がりさんが多い男性が厳しい残暑の中で暑い恰好をしていて、寒がりさんが多い女性が可愛いからと薄着をしている不思議。この傾向は、秋深まったり、冬を迎えても、やはり肌見せをしたい女性は少なくないことからも、季節を問わず同じだと思います。

私は、子どものころから、ずっと疑問です。

オフィスでも暑い恰好をして汗だくな男性社員が冷房を下げたがるとなりで、薄着の女性社員がカーディガンを羽織らないととてもいられない光景。あるいは、お家でも、シャツ姿で空調を下げる夫のとなりで、寒いからこのままでいいというノースリーブの妻。



男性=スーツ(ワイシャツ)、女性=カジュアル(ノースリーブもあり)って、いったいだれが決めたのでしょう?

たしかに、テレビのニュース番組でも、男性キャスターは真夏でもスーツなのに、女子アナは真冬でも薄着なカジュアルだったりします。真冬に半袖はおかしいといった声は聞かれても、真夏にスーツの男性はおかしいといった声が聞かれないのも不思議ですね。

こんな姿は、なにかのルールでも強制力のある慣例でもまったくなく、ただたんに「むかしからみんながそうしてきたから」というだけで、惰性のように従っているだけなのだと思います。



男性が暑くても寒くてもスーツを着るのは、ただ習慣という以上に、そのことに実際的なメリットがあったからだと考えられます。

それは、男性性の象徴としての、権威と信頼のシンボルだったということです。もともと和装文化だった日本は、明治維新以降、権力者を中心に洋装を取り入れていき、しだいに一般庶民にも浸透しています。

この場合のスーツは、暑いとか寒いといった機能上のスペック以上に、体制側・権力側であることの裏付けという大きな機能を果たしていました。

だから、ある時代までの男性は、こぞってスーツを着ることが名誉であり、それだけなく、より多くの富と権力を得るためのシンボルだったのです。



ひるがえって、今の日本では、そのような機能はまったく失われたわけではないにせよ、かなり形骸化してきています。普段着姿の実業家とか、カジュアルしか着ないお金持ちも多い時代であり、誇張をおそれずにいえば、スーツを着ているサラリーマン風の人こそ、むしろ平凡の証しかのようです。

一方で、やはりスーツを着て闊歩している権威的な男性の姿もなくなったわけではなく、あたかも世の中は二分されているかのようにも見えます。

私がこっけいだと思うのは、もう実質的なメリットはかなり形骸化しているのに、いまだに思考停止して「男だから」という理由で暑苦しく動きにくいスーツを着る男性たちの傍らで、なんの疑問もなく、ダイバーシティの時代とか、男女共同参画とか、女性活躍推進を強調している姿です。

本当に多様性を重視するなら、性別識別記号の権化のようなスーツなんてやめてもいいのに、それにはまったく疑問をはさむことなく、ただセンセーショナルな言葉だけが飛び交う喜劇。



ただスーツをなくせばいいとは思いませんが、多様性の時代に見合った柔軟な運用はした方がいいでしょうし、少なくとも今の時代に男性だからという理由のみで強制づける意味はどこにも見当たらないですね。

そして、ゆきすぎたスーツ文化の弊害は、男性たちに不自由や閉塞感を与えている以上に、むしろ女性たちにいまだ「二級市民」的なレッテルを張ることへと結びついてしまっているところにあります。

季節感あふれ、自由度が高い、思い思いのファッションが楽しめる女性は、その見た目の華やかさとはうらはらに、いまだにこの社会で周縁的な位置づけにとどまることが要求され、大小問わず組織や集団の重要な意思決定の場から疎外されてしまっています。

男性こそ、自己表現の自由を。女性こそ、自己決定の自由を。

こんな志しが、いまの日本では、ますます大切になってきていると感じます。



高らかに女性活躍といったフレーズを唱えるなら、まずは男性のドレスコード改革をしてみては。

もとよりこれがあらゆる問題解決につながるわけではないのは当然ですが、意外にも女性閣僚をいくばくか増やす以上に、目に見えた問題提起につながり、じわじわと確実に社会が変わる引き金になる気がしてなりません。

学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。