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【原作】#1 置かれた場所で咲く花は 第一章 来るべき世界


 とうとうこの日が来てしまったか。日下部啓一はため息をついた。
 緑茶のペットボトルが棚から取り出せない。何度もつかもうとしても、手のひらはその冷感を捉えられないのだ。こぶしがボトルの中で握られている——。

 立体映像。台座のようなものからホログラフが浮き出ている。カゴに入れるためには、下部の台座を掴まなくてはならない。それをシンクのようなセルフレジにセットして、購入手続きを終えると、台座と交換する形で本物の商品が出てくる仕組みだ。万引きなどの盗難被害を防ぐためと、人員削減のためらしい。これならほぼ無人で経営できる。最近、普及し始めたシステムのようだ。

 新システムに切り替わり、指紋などの生態認証をしてから会計に進むようだ。認証が済んでなければ、ここで登録をする。そうすれば系列チェーン店での買い物ならばもうしなくてすむ。レジに映る指示に従えばそう難しいものではない、はずだった。モニターに映る指示文言の字が小さい。老眼だ。日下部はメガネをはずし画面に顔を近づける。指示の言葉、専門用語のカタカナの意味が分からない。本当に〝お前の指示〟を信用していいのか。後ろに他の客が並ぶ。不安と焦りから、日下部はヘルプボタンをタッチする。駆けつける店員。

 俺はコンビニでまともに買い物ができなくなってしまった。社会のシステムの変化についていけない。これは、老いだ。俺は歳を取ってしまった。そういえば、来年には年金が支給される——。
 アンドロイドの店員に礼を言ってコンビニから出ると、
「機械に頭を下げるのかい」老婆に声を掛けられた。声には怒気がこもっている。どうやら〝同胞〟のようだ。
「親切に教えてくれたからね」
「それがアレの仕事だからね……」老婆は堰を切ったかのように、愚痴をこぼす。みんな年寄りに冷たい。年功者に対する敬意がない。社会全体がそうなんだ。あのコンビニもそうだよ。なんだよ、生態認証って。私は犯罪者か。しかも現金が使えない。カード払いのみだって。クソ、タバコひと箱買えなかった、情けない話だね。私はもうついていけないよ。ハイテクだか知らないけれど、社会の発展というものは年寄りを排除することではないだろうよ。もう少し、寄り添ってもらってもバチは当たらんだろう。年金も雀の涙だよ。あれだけ一生懸命働いて納めてさあ。これぽっちでどうやって暮らしていけばいいんだい。報われないよ、年寄りは。ねえ、分かるだろう。あんたにも。さっきも苦戦してたみたいだからね。
「そうだな……。だからこそ——」
 日下部は懐から拳銃を取り出し、撃った。サイレンサー、角度、スピードのおかげで、通行人は誰も気づかない。
「おいばあさん、どうしたんだい? 具合が悪いのか?」まだ生温かい老婆の死体相手に一人芝居。あそこのベンチで少し休もうか?」日下部はそう言い終える間もなく、静かに路地裏に消える。

 どんな境遇か知らないが、ホールディングスの金をちょろまかしてパチンコ三昧はいけないよ。あれはお薬買うお金なんだ。それにだ、婆さん。若いヤツらの足を引っ張っちゃいけねえ。時代についていけなくなった俺たちは、できるだけ早く死ななくちゃならないんだ。

 ホールディングス。各国、各マフィアを統合した犯罪組織の総称。名前はない。いや、本当はあるのかもしれない。しかるべく地位にいる者ならば、その名を呼べるのかもしれないが、日下部には無理だ。三十年以上のご奉仕でも、殺しも含めた雑用ばかり。取り換えのきく消耗品に過ぎない日下部にその資格はないだろう。いずれにせよ、米国、ロシア、アフリカ……そして極東の島国の地方都市の裏事業まで仕切るこの組織の全貌を知る者はこの世に存在しないのかもしれない。

〝配達人〟花咲トメ子を排除せよ。ホールディングスからの依頼だ。とある取引に使うキャッシュを運ぶ途中、その額に魔が差したのか持ち逃げをしたのだ。いや、ババアは2ブロック先の次の〝配達人〟にリレーする前にこう考えたかもしれない。あの台は随分回ってる。もうすこし突っ込めばけっこう吐き出すはずだ。少し増やして、いやすぐに倍にして返せば問題ないだろう——。ちょっと拝借するだけ。いや、これは投資なんだ。ギャンブル中毒はまことに恐ろしきかなというやつだ。ババアの死体は後続の処理班がいつものように対応してくれるはず。へまをすることはないだろう。
「終わりましたか」スマホから合成音が流れてくる。いつものように性別、年齢を判断することは難しい。日下部は、ああ、とだけ返事をする。
「次の仕事を待つように。すぐに来ますよ、逃さないように」
 上から目線の慇懃無礼。いつものことだ。

 その辺をぶらつくか。ホールディングスが『すぐに来る』と言うのなら、すぐに来るのだろう。自宅に戻るのを諦め、散策をする。
 よれたビジネススーツで街を歩く。歳の割には背筋は伸び、足取りも軽い。だが、最近の町の風景の変化に戸惑いを隠せない。
 いくつものチラシが宙を舞う。本日、セール開催。お買い得! この機会を逃さないように。人を見つけると、近づいてメッセージを告げる。タブレットペーパーをぶら下げた小型のドローンである。AI制御のセンサーは、人の配置や周囲の空流を感知して、つかず離れず、絶妙の位置で周囲に張り付く。ある程度の時間が経つと、次のターゲットを探す。ドローンが人に接触することはまずなく、たとえそうなってもその軽さからケガをする可能性は皆無だ。
 時代、というやつか。日下部は感心と諦念を抱きながら、チラシドローンを無視しながら歩く。
 チラシドローンの〝一枚〟が近づく。
次のターゲット。処理せよ。
そのささやきの後にメールが送られてきた。写真が一枚添付してある。
 何かの会合、食事の際のスナップといったところか。その中の一人の顔に丸印がつけられている。加原仁。丸の下に記されたその名は、目的の男の名前だろう。

 メールからの情報がそれだけだった。会ったことのない男とその名前。それだけで依頼をこなさなければならない。あとは自分で探して実行せよ、という意味なのだろう。
「雑だな」対象の情報が最小限で、ただ処分しろとの命令だけ。こんな事は初めてだった。いつもなら対象の背景、組織内での立ち位置、そして廃棄理由が事細かに説明されるのに……。だが、日下部はそれ以上愚痴をこぼすことはなかった。錆びた歯車は惰性で回るのだ。

 加原と一緒に写っている男は、十中八九、津田勉に間違いない。カブラギグミのワカガシラ補佐だ。写真の中心に構えている彼に対して、加原の立ち位置は端。底辺ではないが、下から数えた方が早いポジションにいると見た。

 加原の処分理由は何か?

 ホールディングスの構成組織であるネオヤクザのカブラギグミには、最近トラブルがあった。違法薬物がらみの一斉検挙。クミチョウからワカガシラ、はてにはそのチンピラ付き人まで。ほぼ壊滅的と言ってもいいほどの大打撃。カブラギグミの麻薬ルートは当局の手に落ち、それはホールディングスの上納金の減額を意味する。
 読めてきた。

 重要なシノギの全貌が明らかになることはまずない。取引の情報などは漏れないよう厳重に管理されているはずだ。たとえ一つの取引が明るみにさらされても、検挙される者は、組織から見ればごく一部だ。おそらくそのリスクヘッジとして、〝ばれた場合〟に逮捕される役割を用意しているはずだ。当局の面子を保つために、〝ばれてもいい〟ヤマを差し出すのだ。

 だが、今回は違う——。

『検挙者の中には加原仁は確認できない』なじみの情報屋からショートメールが届く。決まりだな。
 加原は内通者だ。サツの甘言に乗った裏切り者か、はたまた最初からかポリの犬の潜入捜査官か。日下部は写真をもう一度見直してみる。脂が浮かんで赤黒く荒れた肌に、くすんだ金髪。安っぽいスカジャン風のジャケットに、少し黄ばんだ白T。脂肪の膨らみが目立ちはじめている。やれやれ。見かけ通りのただのチンピラであってほしいものだ。その方が楽に済む。急ぎの仕事のようだからな。心当たりの場所ならある——。その足取りは自然と早くなる。

 ラーメン白金杯(本店)は閑古鳥が鳴いていた。店は小さく、カウンターで十席ほど。おそらくそれは、この店の日常風景なのだろう。それもそのはず、恐ろしくマズイ。麺にはコシがなくまるで最初から伸びているよう。スープの味は薄く生ぬるい。鳥ガラ、魚介、とんこつ……そもそも何をベースにしているのか分からない。食べ続けると吐き気がしてきて、日下部は途中で箸を止めた。

 これが正解なのだ。

 この状態であり続けるのが、この店にとって好ましいのだ。

 白金杯(本店)は違法薬物の取引現場の一つである。

 ラーメンパウダーと称するインスタントのスープの素に、ヤクを紛れ込ませているのだ。事情を知った〝お客〟のみが、この店を訪れればいい。食えないラーメンを客に出しているはそれが理由だ。繁盛しては困ってしまう。本職がおろそかになってしまうから。

「お客さん。スープだけでも飲み干してよ」加原が言った。
「普通の客は早く帰った方がいいんじゃねえか」日下部は銃を向ける。情報屋から得た話によると、この時間の白金杯(本店)は店主加原一人で切り盛りしていることが多いそうだ。迎え通りの人気店が開く時間だから、一層暇になる時間帯なのだ。加原が立ち上げたカハラグミは構成員数名の弱小組織。カブラギグミの二十次団体。あの写真はおそらく何かの会合の記念写真なのだろう。

「裏切り者め」と日下部はいった。「ボスはお怒りだ。カブラギグミのシノギは好調だったからな」
「待ってくれ。俺もサツに脅されてしょうがなく……」

 やはり裏切り者の犬か。いまいち確信が持てなかったが、いまのブラフではっきり分かった。大方、お前の商売を見逃す代わりに……、といったところだろう。ありがたいことに、ザコチンピラの希望的観測も当たりそうだ。
上は良く見ているな。日下部は思った。適材適所だ。ラーメンヤンキー一匹の処分なんか、ロートルの便利屋を回せば十分お釣りがくる。

 日下部は撃った。麻酔弾だ。今回は射殺しないと決めていた。ババアの殺し方と同じでは同一犯人とすぐに判明してしまう。死因を複数用意する。時間稼ぎの欺瞞工作だ。

 カウンターから前のめりに倒れた加原は、日下部のラーメンどんぶりに突っ伏した。日下部はそのまま両手で体重をかけ頭を押さえる。加原は無意識ながら、はし箱を倒すなど反射的に抵抗する。青のりパウダーが入った瓶のふたが外れ、どんぶりに降りかかった。緑にそまった脂ぎったスープに、さながら毒沼のようにあぶくが沸き上がる。泡は激しいリズムで弾けたが、やがて水面は穏やかになる。

「やっぱり、ラーメンは身体に悪いんだな」年寄りに食わせるものじゃねえ。
 店のドアを開け出ていこうとすると、外を漂うチラシドローンが店の中に入ってきた。
 ドローンはまだ温かい加原の死体を見つけると、とある人物の名を連呼する。
 ターゲットは、日下部啓一。ターゲットは——。


※次章は2024年3月下旬ごろ公開予定です。

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