見出し画像

極彩色の夜に

時刻は午前二時。
向かいに座る男の胸には、いかにも重厚そうな黒いカセットデッキが鎮座している。
男がゆっくりと話しはじめると、それはキュルキュルと音を立て、男の声に沿うようにしてやわらかな旋律を奏ではじめた。

「やさしい音ですね」

「珍しいでしょう。こころに音があるなんて」

人のこころには、それぞれにきまった色やかたちがある。
生まれたばかりのころはまっさらだった胸元のキャンバスに、さまざまな知識や経験、感情のゆらぎが色をつけていく。
幼いころは幾度もかたちを変えていたそれも、思春期を境に定まりはじめ、成人を迎えるころにはひとつのかたまりとなって定着するのが一般的だ。

美容師になる夢を追いかけた友人の胸には、銀色のハサミが鎮座していた。
うつくしかった母の胸元には真っ赤な口紅が、堅実だった父の胸元には年季の入った長財布があった。
追いかけた夢の象徴であったり、強く残っている思い出の品であったり……こころのかたちはさまざまだ。
その詳しい仕組みはいまだに解明されていないものの、成人した大人であれば誰もが当たり前に、きまったこころのかたちを持っている。
なのに、どうしてわたしのこころには、色もかたちもないのだろう。

「君の胸は真っ暗だ」

男が指さしたわたしの胸元には、握りこぶしほどの大きさの穴がぽっかりとあいている。
まるで、ブラックホールのような底なしの闇。
誰もが持ち合わせているはずのかたちがそこにはなく、夜空に浮かぶ月のように、心臓だけが闇のなかで赤く瞬いていた。

男はわたしに問いかけた。

「君は、自分のこころがどんなかたちをしているか、知りたいと思う?」

そりゃあ……と言いかけて、言葉に詰まった。

わたしのこころはいったいどんなかたちをしているのだろう――そう考えたことは幾度となく、あった。
特に学生のころは、周りが続々とこころのかたちを定めていくさまを横目で見ながら、真っ暗なまま何も現れない胸元をもどかしく思っていたはずだった。

どうして、わたしのこころは真っ暗で、何の色もかたちもないのだろう。

けれど考えれば考えるほど、恐ろしくなるのだ。
わたしは卑屈で、とても醜い。
他人と自分を比べては、羨み、妬み、自分勝手に離れていく。
胸の奥に沈んだきたない言葉がこぼれてしまわないよう、あいまいに笑うことで自らの口をふさいだ。
そうして逃げ続けた結果なのだろう。
振り返ると、思い入れのあるものなど、ひとつもなかった。
人と向き合うことを避け、中途半端な笑顔でしかやり過ごすことができなかったわたしは、この胸に空いた穴のようにからっぽなのかもしれない。

かつては現れるのを心待ちにしていたこころも、今では恐ろしくて仕方がなかった。
だって、いったいどんなこころが現れるというのだろう。
それは、きっといびつなかたちをしているに違いない。
汚いこころを晒して生きるくらいならば、何もないほうがよっぽどいい。

「……ところで、あなたのこころはなぜ、カセットデッキのかたちをしているのですか」
「なぜだろう。自分ではあまりよくわからないけれど、僕はむかしから歌が好きでね」

そういうと、男は静かに口ずさみはじめた。
呼吸をするようにうたう男の声に合わせて、カセットデッキのなかでテープがゆっくりと回る――瞬間、男とわたしをとりまく空間が、世界から切り離されたような気がした。
満ちていく音は洪水のようにめまぐるしく、わたしの血液にまで入り込む。
声の、音のちいさな粒はわたしの細胞という細胞に張り付いて、やがて心臓にたどりつき、わたしの体を芯から揺さぶった。
男の大きな口がかたちを変えるたびに、目が、耳が、心が奪われていく。
とくん、と呼吸が一拍遅れて、ふうっと大きく息を吐いた。
まるで心臓が燃えて、爛れているようだった。

「ねぇ、見てごらん」

男は再びわたしの胸元を指差した。 

真っ暗な胸の奥、熟れすぎた桃のようにずるりと心臓がめくれあがっている。

「いったい何?」

めくれあがった心臓の中央には、ロール状に巻かれた極彩色の何かがひらひらと顔を出している。

「すごいね、さなぎを破った蝶みたいだ」

男が手を伸ばし、わたしの胸元に潜んだ極彩色の何かを引きずり出す。
薄くひらりとしたそれは、心臓を軸にからころと、まるでトイレットペーパーのように伸びていく。
真っ暗な胸元に弧を描くさまは、まるで夜空にゆらぐオーロラのようでもあった。

「きれい」

目を凝らして見てみると、薄いビニールのような表面に、空気を含んだ小さな袋がいくつも連なって、ふかふかと厚みを出している。

「これはいったい……?」
「緩衝材かな」

男によって引きずり出されたそれを手にとり、空気の入った袋を自らの指先で潰してみる。
腫れぼったく熱を持った心臓がぴりっと痛んでちいさく弾け、鮮やかな色がこぼれた。

人とかかわることを恐れ、自分のこころのかたちを知ることを恐れたわたしのこころは、緩衝材のかたちをしていた。
薄くて頼りのない自分を覆うようにして連なる、無数に並んだ空気の膜。
そうして自分を守ってきたものを、自らの指先でひとつ、またひとつと潰す。
ひとつ潰していくたびに、胸元の夜が明けていく。

口角をあげて微笑みながら、再び口ずさみはじめた男の頬に触れる。
薄い皮ふのその向こうに、わたしは極彩色の音を見た気がした。
なんてうつくしくはじけるのだろう――!

まもなく夜が明ける。朝が来る。
本当はきっと、なにも恐れることなどなかったのだ。
わたしの生きる世界はこんなにも明るいのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?