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から揚げ日和

すっかりと錆びついてしまった揚げ鍋に油を注ぎ、衣にくぐらせた鶏肉を次々と放っていく。
ほんのりと色づいたら引きあげて、すかさず火を強める。
温度を上げて、もう一度油の中へ。
ジュワっと激しく泡立って、熱をまとった小さな飛沫が跳ねた。

「熱っ……」

指先にぽつぽつと飛び散った油が皮膚を焼く。じりじりと、熱を持つ。

――あ、もうきつね色。

急いで引きあげないと、焦げてしまう。
揚げ物は、時間との戦いだ。
軽いやけどはそのままに、慌てて菜箸を鍋に突っ込んだ。

********************

「天気がよさそうだから、週末はどこか広い公園に行こうか」

彼がそう言ったので、たった一度だけ、弁当をつくったことがあった。

「じゃあわたし、なにかつくっていくよ」

とっさにそう答えたものの、誰かのために弁当をつくるのは、はじめてだった。
料理は、ろくにしたことがない。
そもそも、ひとりで暮らしてきたワンルームの部屋には、ガスコンロがない。
あるのは小さな冷蔵庫と、電気ポット、それから温めるしか脳のないシンプルな電子レンジだけだった。

――あーあ、とんだ安請け合いをしてしまったな。

思いながら、わたしの心は小さく弾んでいた。喜んでもらえるのなら、苦労だってきっと楽しい。

さっそく本屋へ向かい、弁当のレシピ本を探す。
ずらりと並んだレシピ本の背を眺めながら、『彼に作ってあげたい』の煽り文句に、思わず、伸ばした手を引っ込める。
くすぐったくなってしまうようなタイトルの本ばかりが目に飛び込んできていることに気がついて、耳たぶがじわりと熱くなった。


結局、『高校生男子のお弁当』がテーマの本を一冊手に取った。
中身をぱらぱらとめくると、いかにも男子学生がすきそうな食べごたえのある料理が並んでいる。
1500円。この一冊で、ふたり分の弁当が買えてしまいそうな値段だ。

揚げ鍋とガスコンロ、それからキャノーラ油。たくさんの買い物袋を両手に下げて帰路につく。
スーパーに、鍋や簡易コンロが売っていることをはじめて知った。
眺めるのはいつも、惣菜のコーナーばかりだった。
野菜の値段も、肉の値段も、知らなかった。
買った方がずっと安いんだから、やはり独り者の自炊は損でしかない。
ため息をつきながらも、喜んでもらえるかもしれないという期待に、胸は小さく弾んでいた。

レシピ本をめくり、なにを作ろうか思いを巡らせながら、ふせんを貼っていく。
お稲荷さんと、筑前煮。それから、から揚げは欠かせない。いろどりに、ミニトマト。ブロッコリーもいいな。

材料を紙に書き写しながら、めまいがした。
野菜に、肉に、調味料。
たった二人前の弁当をつくるのに、こんなにいろいろなものを買わなければならないのか、と。
部屋の隅においた小さな冷蔵庫には、缶ジュース三本分ほどのスペースしかない。
料理をするからには、食材を保存しておくスペースも必要だ。
大型の冷蔵庫を導入するほどのコストはかけられないので、閉店間際のホームセンターに駆け込み、大きなクーラーボックスをひとつ買った。

前日の晩にスタートしたはじめての弁当づくりは、苦難の連続だった。
買ってきたレシピ本の「少々」の目安がわからなかったわたしは、タブレットPCを片手に「少々 分量 どのぐらい」と、検索をするところからはじめねばならなかった。
「塩ひとつまみ」は、いったいどれぐらいつまむのが正解なのだろう。
レシピ本のくせに「適量」なんて、とんでもない不親切だ。

それから、お稲荷さんに使う油揚げを開くのに手間取り、二枚破いた。
箸で表面を押し付けるように転がすとうまく開くと書いてあったのに、少々強引過ぎたのかもしれない。余分に買っておいて正解だった。
試行錯誤してやっと完成した油揚げは、うどんにのった油揚げのような甘い味がした。

うん、これは、きっと大成功だ。

筑前煮はどうしても味がうまく馴染まず、深夜営業のスーパーで見切り品の筑前煮を買ってきて、食べ比べたりもした。
調べたところ、根菜に味が染みるには、どうやら冷ます工程が必要だったらしい。

彩りのブロッコリーは茹で時間が長すぎたのか歯ごたえが足りず、一粒味見をしたミニトマトは酸っぱいだけで味が薄い。

メインディッシュのから揚げにする予定の鶏肉は、まだ小さな冷蔵庫に眠っている。
美味しいから揚げをつくるには、片栗粉と小麦粉を合わせてまぶすといいらしい、とか。
ご飯粒を混ぜると小気味よい食感になるらしい、とか。
コツは頭にたっぷりと読みこんだつもりではあるが、所詮はビギナーだ。
朝に揚げる予定のから揚げがうまく揚がってくれるかが不安で、その晩はよく眠れなかった。

午前五時。いざ台所へ。
待ち合わせの時間は午前十時。
移動や支度の時間を考えると、タイムリミットまで三時間半といったところだろうか。十分に余裕はある。

醤油と酒と生姜で下味をつけておいた鶏肉に、片栗粉と小麦粉をまぶしていく。
ご飯粒を混ぜるのはやめた。お稲荷さんに詰めるのに、一合分すべて酢飯にしてしまったからだ。

油の温度は、菜箸についた泡を目安にするとどこかで読んだ。
ぶくぶくと泡が出てきたのを確認すると、鶏肉を次々と放っていく。
バチバチと弾けるような音を立てて沈んでいく鶏肉を眺めながら、わたしはぼうっと、彼と出会ったころのことを思い出していた。

********************

彼とは、職場のそばの飲み屋で知り合った。
仕事を終えて、終電まで残り40分。
食事をとるような店はどこも閉まっているので、晩ご飯は近くの居酒屋で済ませるのがわたしの常だった。
カウンター席に座り、瓶ビールを1本と小鉢のつまみを二品。それから決まって頼む、まあるいオニギリ。

「おひとりですか」

ひとりで黙々と食事を済ませている最中に、話しかけてきた男性が、彼だった。

「ここ、刺身こんにゃくがうまいんですよ。食べたことあります?」
「……いえ、まだ」
「じゃあ頼みましょう、少し食べてみてください――すみません、刺身こんにゃくひとつ!」

女のひとり酒は物珍しいのか、声をかけてきた男性はこれまでにもいた。
けれど、彼は他の男性と比べて、とても自然だった。
わたしの顔を覗きこむわけでもなく、不用意に距離を縮めたりもしない。
強引に触れようともしないし、引きとめる素振りも見せない。
会話のテンポが心地よく、気がつけば彼のペースに引き込まれるようにたくさんの話をした。

年齢はわたしの七つ上で、近くに住んでいること。
趣味は読書と観劇であること。
好きな作家や、最近読んだ物語の話。
学生時代のエピソードや、最近出会った面白い人の話……。
冷酒の小瓶をふたりで五本空け終えるころには終電の時間はとうに過ぎていて、わたしたちは店を二軒めぐった。

そうして友人同士として三度食事をしたあと、わたしたちは恋人同士になった。

惹かれたのは、わたしのほうからだった。
思いを伝えたセリフはすっかり忘れてしまったけれど、「もちろんいいよ」と笑う彼の顔はよく覚えている。

仕事終わりに居酒屋で過ごす40分間、隣に彼がいることが増えた。
休みの日には、向かいあって本を読んだり、手をつないで歩いたりもした。
恋人同士になっても触れそうで触れない距離感は変わらず、それが心地よくも、もどかしくもあった。
わたしの日常に、みるみると彼が溶け込んでいく。
わたしの過ごす一日のどこかに、かならず彼がいる。
本当は、きっとそれだけでしあわせだったはずなのだ。

********************

「お弁当つくったのは学生以来だから……」

小さな見栄とともに手渡した弁当は、おおむね好評だった。
なかでもから揚げは自信作だった。衣はカラッとしていて香ばしく、味もしっかりとついている。はじめてにしては上出来だ。

「ここ最近食べたから揚げで、きっといちばんうまいな」

頬張る彼の横顔を眺めるわたしは、きっとにやけていたに違いない。
左手には、すっかり空になった弁当箱。右手には、彼の骨ばった左手。
春先の日差しは心地よく、そういう日々が細々と続いていくものだと、わたしはただひたむきに信じていたのだ。

********************

彼はわたしの望むことを叶えてくれるひとだった。

行きたい場所を言葉にして伝えなくても、察して連れ出してくれる。
わたしのこころに先回りをして、欲しいものを与えてくれる。
彼の生きる世界は魅力的で、どうしようもなく惹かれた。
彼の読んだ本をなぞるように読み、彼の口ずさんだ歌はすぐに調べた。
趣味ではない雑誌に手を伸ばし、苦手なタバコをくわえてみたりもした。

あいしていたのだ。

彼を知れば知るほど、わたしの世界は彼で染まった。
そうしてわたしが彼に染まるほど、彼が遠くなっていくように感じた。

彼は、変わらないひとだった。
口の端をつりあげて、よく笑う。いつも、どんなときも。笑顔のやさしいひとだった。
いっぽうで、動じないひとでもあった。
彼をよろこばせるために、必死になろうが、泣こうが、わめこうが。
彼はいつも口の端をつりあげて、小さく笑うだけだった。
たとえわたしが、わざと彼を傷つけるようなセリフを吐いたとしても。

彼のことがすきで、すきで、わたしは彼を傷つけようとした。
傷ついて、泣いて、すがる彼を見たかった。
わたしのことで、くるしみ、悩み、思いつめてほしかった。
そうして彼が揺さぶられることを強く望んでいた。
わたしが彼の言葉やしぐさに、一喜一憂していたように。
動じない彼を憎らしいとさえ思った。あいされてなど、いないとも。

「別れるっていったら、どう思うの」
「さぁ、どうしようね」

何度も自分から別れを滲ませては、彼の反応をうかがった。
くだらないことだと頭ではわかっていても、彼を試ししたくてしかたがなかった。

わたしはわからなくなったのだ。
彼にあいされているのか。
そもそも、彼にあいされていたことなどあったのか。

彼はいつもやさしくうなずくだけで、それには肯定の意味などはらんでいないのかもしれなかった。
わたしを撫でる彼の指先はやさしいけれど、彼の視線の先にわたしはいないのかもしれなかった。

あいすれば、あいするほどに、わたしはひとりきりになっていく気がした。
勝手にあいして、いぶかしんで、なんとかして気を引いてやろうと傷つける。
はたして自分は、こんなに嫌な人間だっただろうか。

わたしはすっかり変わってしまった。

何度繰り返したかわからない別れ話は、いよいよ本番を迎えた。
別れを切り出したのは、最後もわたしだった。

「今度こそ本当に、結論が出ちゃったのね」

彼は最後まで、困ったように笑うだけだった。
わたしには、彼のこころを揺することなどできやしなかったのだ。
もしくは、わたしも彼のことなど、見えていなかったのかもしれない。

変わらない彼がきらいで、とてもだいすきだった。
変わってしまった自分がきらいで、変わらず彼がすきなことがたまらなくくやしかった。

********************

彼と別れてわたしに残ったのは、小さなコンロと揚げ鍋、押し入れの奥にしまい込んだ大きなクーラーボックスだけだった。

料理をする習慣は相変わらずないけれど、たまに思い出したように鶏肉を買ってきては、から揚げをいくつも揚げて、食べきれないままに腐らせる。
彼と別れて一年が経ったいまも、得意料理はから揚げだ。

短い、短い恋だった。
それでもやっぱり、あいしていたのだ。
たとえそれが、一方的な思いだったとしても。

跳ねた油でやけどをした指先が赤く水ぶくれて、ヒリヒリと痛む。
彼の少し困ったような笑顔が、ふいに頭をよぎった。

――あのとき、わたしのことを少しは好きでいてくれた?

水で指先を冷やしながら、浮かんできた言葉をぐっと飲み込む。
痛みはじきにひいていく。わたしはきっと、大丈夫。

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