見出し画像

[短編小説] 夏恋写真が、私を呼んだ。

 「写真家が恋に落ちるとどうなるか知ってる?」
 私はいつしか先輩に言われた言葉を思い出した。
 「そんなこと自分に起きるはずがない」、と思っていた。

 扉を開いて剣道場の中に入ると、女子剣道部のみんなが和気あいあいとした雰囲気で雑巾掛けをしていた。口々に、足が回らない、だとか、もう限界、と言いながらも、さすがは運動部といったところで、全員が道場の端から端まで、四つん這いの姿勢で床を駆けていく。私だったら、一往復も出来ずに倒れ込んでしまうだろう。
 「おっ、金原かねはらー!」
 いおちゃんが私に気付くと雑巾を掴んだ手を振った。それに続いて、後輩の部員たちが「こんにちはー!」と声を揃えて言ってくる。私は”運動部の挨拶”に気圧されながら軽く頭を下げた。自分の首からストラップでぶら下がったデジタルカメラが揺れる。
 「先生に頼み事されてて! もう終わっちゃった?」
 「最後のミーティングは終わった。今は恒例の大掃除。それもこの雑巾がけで最後だね」
 いおちゃんの言葉を聞いて、私は悔しさから地団駄を踏んだ。
 今日は私の親友の五百井いおい あかり、通称いおちゃんの部活動引退の日だ。
 写真部の私は、卒業制作の素材探しを兼ねて、二か月前から剣道部の部活動の様子を撮影させてもらっていた。にも関わらず『最後のミーティング』という絶好の撮影機会を逃すなんて、頼みごとをしてきた先生が癪に障った。

 「あかりさーん! サボらないでくださいよー! まだ終わってないですよー!」

 私といおちゃんが会話をしているところに、後輩のすみれちゃんの声が飛んできた。その声が弾んでいて、いつもの剣道部の雰囲気の良さを伺わせる。次いで、今日は部員のみんなの目尻が少し赤くなっていることに気付く。最後のミーティングで涙したのだろう、と予想が付いて、私は「部外者の自分は居なくてよかったかもしれない」と思い直した。
 「ごめん、行くね。今日も自由に撮っていいから!」
 「ありがとう。邪魔にならないようにする!」
 私が首から下げたカメラを掲げて言うと、いおちゃんは部員たちの輪の中に戻っていく。彼女が踏み出す度に夏服の白いブラウスが光沢を放ち、ミディアムボブの黒髪が綺麗に揺れた。
 私はすかさず移動して、カメラを構え、いおちゃんに向けてシャッターを切った。
 『後輩を優しい眼差しで見守るいおちゃん』が撮れる。
 その画像を見て、私の中に安堵の気持ちが広がった。

 いおちゃんの剣道部生活は多事多難の二年半だった。
 いおちゃんは小学生から剣道をはじめた。そのため、高校に進学して剣道部に入部すると、すぐにレギュラーを務めるようになった。傍から見たら、”一年生レギュラー”なんてカッコイイ響きがするけれども、手放しで喜べることばかりではなかったみたいだ。入部して間もない頃は対戦相手が常に上級生で苦戦を強いられたり、内々ではレギュラーから外された先輩やその取り巻きからやっかみを受けることもあったらしい。
 それでも、いおちゃんはひたむきに剣道に打ち込み続けた。そんないおちゃんの背中を見ていた同級生や後輩の子たちが部に残り、今の剣道部が出来上がった。
 そういった剣道部の紆余曲折を、私は後輩の子に聞かせてもらって、後から知った。親友としてそのことが少し寂しかったりもしたけれど、周りの人に心配を掛けまいとして弱音を吐かない性格は、いおちゃんらしいと思った。
 これまでの剣道部の背景を知ったからか、運動部特有の人間関係に苦手意識がある私だけど、いおちゃんが部長を務める剣道部は好感が持てた。
 そんな剣道部も、今日で解散の日を迎える。
 夏の大会で県予選に臨んだ剣道部は敗退。いおちゃんは個人戦でも善戦したけれど、それでも関東大会までは届かず、いおちゃんの高校剣道は幕を閉じた。


 「よーし!そろそろ終わりにしよっか!」
 いおちゃんが声を掛けると、みんなが返事し、掃除道具を持って渡り廊下の手洗い場に向かって、道場の外に出て行った。いおちゃんは誰もいなくなった道場の真ん中に立って、大きく伸びをしていた。綺麗になった道場の空気を全身で感じているようだった。
 私はいおちゃんに近付いて声を掛けた。
 「今日で引退って、名残惜しいって思わない?」
 いおちゃんのくりっとした目がこちらに向いた。
 「どうだろう。今日だって大掃除があったし。もう夏休みだし、すぐ受験勉強だって始まるし。次から次にやることがあって、何だか実感わかないなー」
 いおちゃんは爽やかに微笑んで言った。
 いおちゃんは高校で剣道をやめる。最後の大会の前から言っていた。それは特別な決心とかではなくて、自然な流れというかんじで。
 剣道は特殊な競技で、他のスポーツと違って気軽にできるものではない。大学生のお姉ちゃんに聞くと「剣道の道具を持って通学している学生なんか見たことがない」と言われた。実際はどうかわからないけど、剣道は高校の部活まで、という人が大半なのかもしれない。
 「でも、時々、師範の道場には顔を出そうと思ってる」
 いおちゃんもこれまでの数多の剣道部員と同じように、剣道から離れていく。何かに一所懸命打ち込んだことがない私にとって、そういった決心がどういった感覚なのか興味深かった。
 「ごほん。えー、五百井選手。長い間お疲れ様でした」
 私はスポーツのインタビュアーの口調を真似て話し掛けた。
 「何それぇ?」といおちゃんが笑う。
 「いいから、いいから!‥五百井選手、貴方にとって剣道とは一体どういったものだったのでしょうか?」
 「えー!難しい質問だなー。‥‥”私の青春”かな?」
 「ありきたりでつまんないー!もっとそれっぽいこと言ってよー」
 私の理不尽な言い掛かりに対して、いおちゃんが「うるせえー」とニコニコしながら私の肩をパンチしてくる。
 私はいおちゃんのパンチを避けて少し距離を取ると、カメラを構え直した。
 「ほらー!インタビューに応える選手の表情作って!」
 私がリクエストをすると、いおちゃんがノリで表情を作ってくれる。

 『わざとらしくキリッとした表情』
 カシャ。

 『右手の人差し指と親指で作ったエルあごに当てたしたり顔』
 カシャ。

 『吹き出した後の、弾けるような笑顔』
 カシャ。

 私はいおちゃんの変化する表情を撮影し、カメラを下ろすと、あらたまって尋ねてみた。
 「小学生から続けてきたこと。ここで終わりで、本当に後悔しない?」
 私の質問に、いおちゃんは少し面を食らったような顔をしたけど、すぐに微笑んで言葉を紡ぎ出した。
 「わからない。でも‥‥」
 「でも?」
 「”全部出し切った”、って思いたい!」
 いおちゃんが澄んだ瞳で力強く言った瞬間、
 あっ、今の表情、めっちゃ良い、と思った。
 いおちゃんの最高の瞬間を、カメラで捉えられなかったことに、悔しさがわく。
 

 「写真家が恋をした時どうなるか知ってる?」
 佐々木先輩が部室の椅子を横一列に並べて作った簡易ソファーに寝そべりながら声をあげた。先輩のスカートの裾が床に垂れ下がっていて太ももが顕になっている。目のやり場に困るので指摘したかったが、気にしてないふりをした。どうせ茶化されることが目に見えてわかっていたからだ。
 一年前の写真部の部室で、私は備品のノートパソコンで撮影した写真の整理をしながら、部長の佐々木先輩と話をしていた。
 「先輩。写真家っていうのは”写真を撮る人”のことをいうんですよ?」
 私は備品のパソコンを操作しながら呆れたように返事した。
 佐々木先輩は写真部の部長なのに写真の提出率が低い。腕はある人なので他の部員から文句を言われることはないのだけれども、真面目気質な私としては佐々木先輩の部活への消極的な姿勢に少なからず不満があった。
 「私は”ベストショット”がやって来るまで、辛抱強く待つスタイルなんですー!」
 佐々木さんが身体を起こして、私に一眼のレンズを向けた。私のぶすっとした不満顔に向けてシャッターを切ってくる。
  「‥それで?何ですか?写真家が恋をするとかどうとかって?」
 佐々木さんが話の続きを切り出さないので、私から律儀に話を振ってあげる。
 「あっそれね!それはさ、段階があるんだよ」と佐々木さんが姿勢を正すと、胸を張って言ってきた。
 「”段階”、ですか?」
 「そっ。段階というかレベルともいう。徐々に上がっていくこともあれば、一気に最高到達点に達することもあるから」
 「で、その段階?、レベルって何なんです?」
 佐々木さんは人差し指立てた。その態度が偉そうで癪に障る。
 「其の一。『気付けば被写体の写真ばかりが増えていることに気付く』」
 「”其のニ”は?」
 「其のニ。『自分が撮った被写体のベストショットを誰にも見せたくなくなる』。そうなったら末期症状だね。『最高の一枚』を独り占めしようだなんて、写真家のエゴでしかないよね」
 佐々木さんがそれっぽいことを言っているように聞こえて、茶々を入れづらい雰囲気になってしまった。いつもこうだった。気付けばこの人のペースに巻き込まれている。
 「でもさ、”それといった瞬間”っていうのは急に訪れるものなんだよね。写真を撮っているとさ。だから、覚悟しときなね?」
 そう言って笑った佐々木先輩は、一学年しか変わらないはずなのに、やけに大人っぽかった。
 
 
 私の中で、過去に佐々木先輩と交わした会話が過ぎった。
 私はいおちゃんと二人きりの空気に居た堪れなくなって、適当に理由を付けて、道場の外の渡り廊下に出ていた。
 あらためてカメラのデータを確認すると、今日撮影した写真は、『いおちゃんの画像』で溢れている。その事実がどういう意味を持つのか、考えると怖かった。気付いてしまったら、後戻りできないような、そんな気がした。
 私は外窓から道場の中を覗き込んだ。室内に、いおちゃんが一人で立っている姿が見える。それが、神聖なもののように見えて、思わず注視してしまう。
 すると、いおちゃんは頭を下げた。
 この道場に、そして道場ここで過ごした全ての時間に、感謝の念を込めるような、そんなお辞儀だった。
 私はカメラを構え、窓の外からファイダー越しに室内のいおちゃんを捉える。瞬きを惜しんでファインダーを覗き込み、ボタンに添える指先に意識を集中させる。
 いおちゃんが下げていた頭を、ゆっくりと上げた。
 私は、表情をより確保できるように角度を変える。
 シャッターを、二度、切った。
 しゃがみ込み、撮影した写真を確認する。
 一枚目の写真には、『”凛とした”いおちゃん』が映し出されていた。
 後悔と納得が混在しているような表情が印象的な写真だ。
 佐々木先輩が言っていたことを思い出す。
 

 「”それといった瞬間”は、急に訪れる」


 撮影した二枚目の写真を画面に表示させる。
 『”全部を出し切った”。そう言いたげな清々しい表情のいおちゃん』がそこにはいた。
 その写真のいおちゃんが、この世の何よりも綺麗だ、と思った。
 私の身体が、とくん、とくん、と脈打つ。
 私はこの写真を誰かに共有することができるだろうか?
 無理だ、と思った。
 この写真は、私だけが切り取れる『いおちゃん』だ。誰かに見せることなんか、勿体無くてできない。
 私は壁に背中を預けて座り込んだ。渡り廊下の手洗い場ですみれちゃんたちがはしゃぐ声が、セミの鳴き声が、遠くに感じる。
 私は、隣に現れた、想像の佐々木先輩に問いかけた。

 先輩にもそういう被写体ひとがいたんですか?
 独り占めしたい、と思うほど大切な一枚を撮ったことがあるんですか?

 佐々木先輩は柔らかく微笑むだけで応えてくれない。
 高校三年生の夏。私は、一枚の写真から、自分が恋に落ちていたことに気付いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?