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晴れたらいいね

自分を振り返るようになって、調子が悪いです。
しょーもないことは忘れて、楽しく生きるように心がけたほうがいいかもしれない、とも思うけど、そうやって、本当は寂しい、悲しい感情を、別のことで紛らわせて生きてきた結果、今のどうにもならない苦しみにつながってしまったのです。
だから逃げずに向き合うしかありません。

インナーチャイルドを癒すワークには、自分が親の代わりになって子どもの自分を愛してあげるというものや、直接親に不満を伝えて親と和解するというものがありますが、どれも私には当てはまりませんでした。
もちろん、そのワークが適切で、問題が解決したという人も多いと思います。だからこそその手法が流行ったわけで。
私には当てはまらなかっただけ。
もちろん愛着の問題と言っても多種多様なので、みんな自分にピタリと当てはまる方法が見つからずに苦しんでいるんだと思います。

ではなぜ、私には当てはまらなかったのか?
・母の私に対する拒絶が徹底していた。
・物心つく前から、愛情ある接し方をしていなかった。
・母が直接私に暴言を吐いたり、手を出したことが無い。(虐待行為として認識できない)
・父や祖母は愛情ある接し方をしてくれていたが、私の関心が母にあった。
・母自身の独特な価値観や生き方に、少なからず影響を受けている。(私の中に、否定したいはずの母がいる)

私が生まれたのは、母が21の時です。子どもを持つ、子どもを育てるということが分からなかったのだと思います。
加えて母には、やりたいこと、なりたい自分像があり、子どもが出来たことでそれを諦めざるを得なかったという悲しさもあったのだと思います。
母はよく、「あなたたち(子ども)のために、仕事を辞めて家に入った」と言っていました。
本来なら、これから社会に羽ばたいていく、夢見る年頃なのに、24時間子育てと家事に縛り付けられるなんて!母はとても悔しかったのだと思います。
だったらなぜ結婚したのか?
結婚は家同士で決めたようですし、母は頑固な祖父の言う通りにしか生きられなかったと不満をこぼすこともありました。
子どもの私にとっては、生まれた時から母は『指針となる価値観を身につけた大人』だったのですが、社会的に見れば、まだ未熟な夢見る女の子だったわけです。
このギャップが、私と母の関係を最初から複雑なものにしていたんだと思います。

時代が違えば、母は祖母に私を預けて、バリバリ働いていたと思います。もしかしたらその方が、母はかっこいいキャリアウーマン、祖母が私を育ててくれる人という割り切りが出来ていたのかもしれませんが、母は未熟なりに私を育てようとして奮闘せざるを得なかったために、それが私への恨みとなってしまったのかもしれません。

若いお母さんでも、子育ての上手な人や、子育ては苦手だけど子どもと友達のような関係を築ける人もいるでしょう。
母は、彼女自身の性格から、とにかく『子どもを育てる時期ではない時に子どもを持ってしまった不幸な女の子』になるしかなかったんだと思います。
そしてそんな未熟さがあることを、周りや子どもに知られるのをとても恐れていました。

母の子育ては、愛情のない、自分の仕事として割り切ったものでした。
母には、子どもを『こう育てる』という事業計画が先にあり、その通りに行かないことばかり続いて嫌になっていたのかもしれません。
私が彼女の事業の『商品』だとしたら、製作者が努力しているにも関わらず不良ばかりが起き、うまく開発できないダメ素材だったわけですから。
若さゆえに、その『事業計画』にもおかしなところがたくさんありました。

『女の子だからお嬢様に育てる』という、呆れるくらい短絡的な計画。
まず初めに、言葉を発する前から「おとうさま、おかあさま」と呼べるように躾けようとしていたこと。
歩き始め、離乳食が終わったら、ホテルのディナーでテーブルマナーを仕込もうとしたこと。
幼児期に、にこやかにジョークやユーモアが言えるようにすること。
なんとまあ、ひどい事業計画なのか?
開発側の努力が検討はずれなので、それは不良品になっても仕方ありません。
そこで育てることに見切りをつけてしまった母の短絡さも、若さゆえの無知だったのかもしれません。

そういう母の未熟さに気づくには、私が大人にならなければいけませんでしたし、そんな未熟な母を指針としてきたので、私の中にも大人になりきれない自分がいます。
そして未だに、母が母としての役割を果たしていたと思いたい自分が居るのです。

母は、私の小学校6年生の時の担任に、子育ての方向性がズレていることを指摘されます。
その時の母は、反省するというより、プライドを傷つけられたと感じたのでしょう。
その恥ずかしさや悔しさが、何故か私には伝わってきて、担任には、自分の家の恥ずかしい部分を見られてしまったという怯えがありました。
担任が家庭訪問をした時に、妹とふざけていた私のせいで、母が育て方を間違えていると怒られてしまったのだと思っていました。
興奮し出すと止まらなくなる性格をどうにかしなくてはいけない。
それなら私はどんなに楽しそうに見えても関わらない方が身のためだ。などと考えたこともあります。
特に担任の前では(もともと厳しい先生だったけど)自分を押し殺して大人しくしていようと思ったものです。

ー 今思えば、そういう姿を見て担任は違和感を感じたのでしょうが ー

何もかもがズレている、母の思い込みと意地のツケを、私が払わされてきたのかもしれません。

母が大人になり切れていなかったがために、私はまともに育ててもらえなかった。
無知で幼稚な母なりに一所懸命考えて、私を育ててきたので、母にその恨みをぶつけたとしても伝わりません。
また、担任の話を正しく理解しなかった母ですから、私の本心を話しても、自己保身に突っ走るだけで、ますます私を傷つけるでしょう。
つまり、母自身が、自分を客観視できるような知性を持ち合わせていないのです。

幼稚ならば幼稚なりに、私という幼稚な人間と同士になって欲しかった。

知的障害のある人でも、人を愛する能力はあります。むしろ障害と闘って生きているからこそ、人に対する愛着があるかもしれません。
そういう人は障害があったとしても良い子育てが出来ると思います。
一方で母は、知的遅れが無くても、愛着という機能を持ち合わせていなかったのです。
だから本当は子どもを持つべき人間ではなかったのだと思います。

ドリカムの曲に、『晴れたらいいね』という曲があります。
娘から、おそらく母親に向けて、友達のように語りかける曲です。
親は、別に立派でも何でもなくて良い。
人間同士として「あなたのことが好き」「一緒に居たいね」と思える関係になること。
それこそが健全な子育てなのだと思うこの頃です。

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