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差別を考える② ー 差別されて当然の意識 ー

前回の記事 で書いた『夢』から気づいたことの続きです。

大学の校舎にあった『トイレ』が、女子トイレとされているのに、ドアもなく外から丸見えだったり、有料だったりで、戸惑ったという夢でした。

もう一つ、私が驚いたのは、広いトイレを使っていた女子学生が、そのトイレを使う理由に、「5円出して使い勝手の悪いトイレを使うなら、100円出して広いトイレを使う方が良い」と言っていたことでした。
5円のトイレは明らかにトイレとして機能しない欠陥品なのに、コスパの面で比較をするというのが、とんちんかんに思えたのです。

問題はそこではないのに、個人の手間の面やコスパの面で比較してしまう。
5円トイレは女子トイレとして機能しないということに、みんなで声をあげて行かないと大学側に気づいてもらえない。
「使っている人もいるはずだ」として、いつまでも5円トイレを撤去、改修しようとしない。
お金を持ち合わせていない時は仕方なく5円トイレを使うかもしれないので、完全に無くなってしまったら困るということもあります。

実はこんな違和感を実際に感じる場面が、最近とても多いのです。

現在の社会には、矛盾した制度、使う側のことを一切考えない横暴な制度が、あまりにもたくさんあります。
特に最近は、宗教に毒された一部の政治家によって、とんでもない法改正が行われることもありますし、これからも行われる可能性が大いにあります。
その矛盾や問題点を指摘するのではなく、
「今の私には特に負担にならないから、問題視しなくていい」
と考え、受け入れてしまう人があまりにも多いのです。
また
「国や自治体や大きな組織に抗議するなんて面倒!」
「多少の不満があっても、我慢するのがスマートな大人」
と考える人も増えている気がします。

小さい頃から、理不尽なルールでも大人に従うことが正しいと教え込まれているから、そこから抜け出せないのか? 
あるいは長いモノには巻かれておくほうが身のため、と誤学習してしまったのか?

私が職場で浮いてしまった原因も、実はこれが大きかったのです。
「明らかにおかしいでしょ?」
「今変えるようにみんなで抗議しないと、今後入った人も辛い思いをするよ?」
雑談では文句を言うのに、直接抗議することには誰も賛同してくれなくて、案の定、文句を言っていた人はバラバラと辞めていきました。
組織は、従業員が不足したら新しく求人を出せば良いと安直に考えます。採用条件が良ければまた入ってくるし……騙されたとも知らないで。
そうやって砂の上に建っているような事業があまりにも多いです。

5円の使えないトイレでも、無いよりはマシ。
私はお小遣いがたっぷりあるから100円トイレを使うので、関係ない。
100円すら出せない人などいるはずがない。
100円すら出せないなんて、この学校に居る資格はない。

これらの考えは、実は社会の一員としての義務を放棄していることになります。
『社会人』としては本来、失格なのです。

自分の場合は負担にならないけど、負担になるであろう人がいるのなら、自分さえ良ければ良いという考え方は大変危険。
社会を形作っているのは、自分だけでなく、いろんな要素や条件を持った人間なのですから。
また、『今』の私が大丈夫でも、将来大丈夫で無い日が来るかもしれないのです。

ある習い事で、1人だけ上手く出来ない子がいました。
上手く出来ないというより、やれば出来るのに緊張から固まってしまうようです。
そういう子どもって居るよなー、私もそういう子どもだったよなーと微笑ましく見ていたのですが、同じようにその様子を見ていた大人が言ったのです。
「あの子、何か障害があるよね?」

ー だから何? ー

言ったその人にとって、『障害児だからサポートしてあげる』という気持ちからではなく、自分の想像できないおかしなことは、障害児だと思えば(自分が)納得できるよね、ということなのです。

寛容さと、広い視野。
人の立場を想像する力。
自分も同じ立場になり得ることを自覚する力。
誰かの苦しみに、できる範囲で寄り添おうとする姿勢。
人としてあるべき姿がどんどん失われていて、
それらが大切だと教えられる大人も少なくなっています。

『今』の『自分』が良ければ良い

この考え方では、いつか必ず何かの形で自分に還ってくると思います。
自分のできる範囲を超えて何かをする必要は無いけれど、問題を感じたら、出来る限りのことをしたい、していかなくてはいけないと思うのです。

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