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本当の私

連続テレビ小説か?
というくらい、連続投稿しております。

自分の過去、過去から出来上がった自己防衛策が今に及ぼす影響が、わかってきました。
自分が日々、取り繕っている。
取り繕うことに疲弊している。
ということもわかってきました。
ところが、それがわかったところで、遠い過去に忘れ去られてしまった本当の自分が、いったいどんな性格だったのか?ということがわからなくなりました。
取り繕って社会でうまく(?)やってきたつもりでいたけれど、無理が大きかったので、今ジレンマに陥っているわけです。

前回ご紹介した本の著者、イルセ女史によれば、自己防衛した自分であることは、ある種の自己肯定感を生むが、やがてそのギャップに、自分自身が苦しむことになる。
本当の自分を出すとき、今まで取り繕ってきた部分が大きければ大きいほど、落ち込んだり、自己不全感に悩んだりするというのです。

確かに、『理想の自分』になりたくて頑張ってきて、勉強をし、努力をし、ようやくそこに近づいたと思っていたのに、本来自分にはその要素が無かったと割り切って、否定したかった自分に戻さなくてはならないのは、悔しくて辛いことです。
イルセ女史によれば、そこにある種の心の痛みや哀しさを感じてしまうが、実は否定したかった自分が『悪い』と思い込んでいたのは自分だけであって、本来の自分に戻って人と接することは、何の問題も無いはずなのだそうです。

人に備わっている才能や性格が、最初から不適切なものであることはなく、自分が生育過程で勝手に描いてしまった理想像との解離を、自分自身で『悪いもの』と捉えてしまうのでしょう。

改めて自分という人間を振り返ってみると、

・行動がとてもゆっくりである
・物事を理解できないわけではないが、正確に覚えたり、把握したりすることに時間がかかる
・体力や気力が、一般の人よりも少ない
・一度に複数のことを処理できないが、一つのことを丁寧に処理する
・コミュニケーションを取る時、会話の速さに付いていけない
・人の表情や言動に敏感過ぎる
・心臓が弱いので、すぐにどきどきしてしまい、恐怖感を覚えやすい

そんなところが特徴なのだと気づきました。
そうすると、今まで歩んできた方向は、かなり違っていたような気がします。
本当なら人と合わせることにとても体力を要する人間なのに、対人職が得意と思い込んでいました。
自分の中のストレスやモヤモヤは、苦手だけど生活のために頑張らなければいけないと無理をしていたことの証しだったのです。

なぜ人と関わる仕事や人のお世話をする仕事が得意と思い込んでしまったのか?
それは幼い頃、母が大人の会話に入れてくれなかった悔しさと、いとこたちを面倒を見ていれば褒めてもらえたという成功体験からです。
どちらも、母や親戚の顔色を伺いながら行っていたことなのです。
相手の立場に立って考えることが苦手なのに、対人職が天職だと思ってきたのですから、幼い頃の経験の影響の大きさは、たいへんなものです。

なりたい自分
ではなく、
ならなくてはいけない自分

を作るために、必死に努力してきたのです。
ならなくてはいけない自分は、母親の気まぐれな言動によって、たまたま編み出したものに過ぎず、たとえ上手く行っていたとしても、誰かの評価が無いと不安で仕方ありません。
だからどんなに頑張ろうと、達成感は得られなかったわけです。

私は基本的に人が苦手です。
気遣いもできません。
しかしそんな不器用で偏屈な私だからこそ、ありのままの自分で接すると人が好感を持ってくれることが多いです。
不器用だからこそ、信用してくれることも多いです。
他人の成功例を聞くとすごく抵抗を覚えるのは、自分にその資格も才能も無いことを自覚しているからです。
もしかしたらこれまで自分から耐えられなくなって方向転換をしてきたのは、自分で自分に「苦しい。無理。いい加減無理していることを気づいてよ」と言っていたのかもしれません。 

なれない自分になることに
すべての生活を捧げてきました。
シマウマがライオンの振りをしていても、無理なのです。
いよいよその毛皮を脱いで、敵のテリトリーからそっと逃げ出す時がやってきました。

わたしが『心地よいこと』を見つけていくために、時間が与えられたのだと思って、ゆっくり自分探しをして行くこととしましょう。

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