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何が私を縛るのか?

※マイナス思考全開の内容です。
不快な方はご覧にならないでください。

どこに行っても自信が持てません。
その原因は、母が私を否定的に見ていたことにあるのだと思っていました。
不適切養育によるトラウマ。
母は暴力的ではありません。平和主義です。
しかし『冷たい』。
それも、いつも、誰に対しても冷たいわけではなくて、私に対してだけ『冷たい』のです。
自分だけに不適切な態度をしている。
そのことは、大きな心の傷になります。
だからイジメは辛いのです。
周りから見たら、明るく優しい人。
その人が自分だけに冷たいのは、自分に原因があるから。
周りの人が母を良く言えば言うほど、私は惨めになり、誰にも心の内を話せなくなります。
そして、その原因は私の側にあるのだと思うしか無くなります。

母だけがそのような人なら、母が特別だったと割り切れたかもしれません。
しかし、小学生になっても、中学生になっても、私だけ注意を受けたり、孤立してしまうことが多く、母から見た私の『問題』は、社会からも『問題』に見られるのだという証明になってしまいました。

状況がそれぞれ違うとしても、同じようなことが繰り返されれば、確信に変わってしまいます。
かくして私は、『社会からはみ出し、排除されやすい性格なのだ』という確信を強めてしまいました。

おずおずと手を出してみると、あちこちからペシっと手を叩かれます。
手の出し方が悪かったのか?
手を出した場所が悪かったのか?
手を出してはいけない状況なのに察することができなかったのか?
それがわからないので、手を叩いた人の怖い目つきに怯えながら手を引っ込める。
そのうち、どんな状況であろうと、そもそも手を出さない方が良いんだと学習する。
手を出さないということは、周りの人が私という人間を意識する機会も失うということになります。
みんながワイワイやっている時に、後ろに立って眺めているだけ。誰も私のことなど眼中にありません。
こんな寂しい人生を送っていることも、誰も知らないのです。

母が原因だからと、私が母に詰め寄ったとしても、母と同じ行為をした人があまりにも多いので、逆に母こそが常識なのだと思うしかなくなります。
常識的な母に、非常識な私がそれは違うと訴えても多勢に無勢、むなしいだけです。

他者目線の弱い特性のある人は、似たような悩みを持っているのではないでしょうか?

私の何がそこまでズレているのか?
一つ一つについて検討していくことは、途方もない作業です。
しかし、感覚がズレていることが、本当に悪いことなのかといえば、そうではありません。
感覚のズレがなぜ人を苛立たせるのか?
それはあまりにも世間の常識が狭い範囲で善悪を決めているからです。

あいさつをしましょう!

という常識が色濃くなればなるほど、あいさつをしない、目を合わせない人が悪目立ちします。
しかしあいさつをしないことが、殺人や強盗に匹敵するくらい重い罪なのでしょうか?
そんなことはありませんし、犯罪にすらなりません。
でも人は、犯罪でも無いことを、まるで犯罪のように毛嫌いし、それを破った人に制裁を加えたくなるのです。
そうして、人が人を、排除していくのです。

母は常識的な人でした。
常識的な躾をしようとして、うまくできない私に呆れてしまいました。
母に呆れられた私は、母と同じような価値観の人から排除されることとなりました。
私は生まれながらにして、『常識のなっていない』人間なので、どうすることもできません。
母の常識を否定しないと生きていけません。
それは反抗心でも何でもなく、私が許される範囲の常識を作り直していく作業です。
しかし、みんなの信じる社会常識はなかなか変わらない。
孤独で異端であることを自覚して生きなくてはならないのです。

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