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理屈じゃない

最近、あちこちに行って占ってもらうことが趣味になっています。
ドクターシッピングならぬ、占いシッピング。
自分でも、こんなところに散財して何をやっているんだか……と思うんですが。
『私』について、ただの他人はその人の感覚で一方的に決めつけるだけなので、何か見えない力で『私』像を見てもらい、自己分析に役立てたいという思いが強いのです。
『私』像が自分自身で見えない毒親育ちが、必死で編み出した『認知行動療法』の一つなのだと思います。
ただ依存的になるとお金が掛かるので、他人にはオススメしません。

そんなこんなで、またまた占いに行って来ました。
ちょっと出かけたついでに、その地で評判の老舗占い師さんに占ってもらったのです。
昨年から、いろいろな所で人間関係のトラブルに巻き込まれて、今後何をやるにしても付いてまわる『人間関係』をどうすれば穏便にできるのか?または人間関係が原因と言っても、それも取ってつけた理屈であって、本当は嫌なことから逃げているだけじゃないかという不安もあり。
「毒親が何かやったとか、やらないとか、そんなことに囚われていないで、きちんと生きなさいよ!」と自分に喝を入れてほしいという気持ちもありました。

ところが結果は真逆。
その占い師さんは開口一番、
「あなたずっと働き通しだったんじゃない?」と。

働き通し……
確かに職を転々としながらも、この数十年来、全くの無職という期間はほぼありません。
ただ、とても限定的なパート勤務だったり、空いた時間は資格を取るための勉強に費やしていたり……。
自分の生活を賄えるような仕事という視点で見ると大して『働いて』いないのですが、子育てや介護や資格勉強をしながらも、何かしらの職に就いてはいたので『働き通し』ではありました。
占い師いわく
「子育ても大変な仕事よ。あなたはずーっと働いてきたから、今すごく疲れているの。休んだ方がいい」と。

子育てや介護や家事がどんなに大変でどんなに重労働でも、この社会は賃金の発生しない労働を評価してくれるわけではありません。
よく言われているこの問題は、男女の働き方格差解消とか、それに対価を発生させる仕組みを作るとか、そういうことではないんですよね。
実際に『私の体』は、ハードモードの仕事を、ひどい時は年間の休憩時間が数時間というブラックな条件で働き続けていたことを知っています。自覚はなくても。
何十年も……。
過労死レベルで疲弊していたんですよね。
だけどそれが『過労』だとか、『人権侵害』だとか、他者に主張できる『理屈』は無い。

他人の評価しか自分を測る基準が無い毒親育ちは、自分自身の人権が侵害されてきたことにも気づけない。
そしてちょっとでもだるく感じると、さらにハードモードに追い込もうとしてしまうのです。

人間関係が上手くいかない。
仕事が捗らない。

過労のピークでこんなことを改善しようとしても無理なはずです。
雇用主も産業医も居ないから、休職願いを出すこともできない。
休職するなら自分で工夫するしかない。
ただ、子育ても介護も終えている私は工夫次第でいくらでも休むことができるのです。

自分が『ずっと働き続けてきた』ことに今まで気づかず、「怠けてばっかり」「自活できていない=生きる価値がない」と、やっていない理屈を見つけては自分を責め続けていました。
この思い込みはやはり『毒親からのメッセージ』なのです。

母はむしろ、私が小学生の時から家事を放り出して外部の仕事に生き甲斐を託していたために、定年を前にして自分を見失いかけている。
外部の仕事に頑張ることと、自分や家族の生活に頑張ること。
どちらも本来『働くこと』なのです。

収入や地位といった誰の目にも明らかな理屈が無くても、私は働き続けてきた。

占い師の最初の一言で、悩みの大半が別視点に変わって「私はいったい何を頑張ろうとしていたんだろうか?」と気が抜けた状態になりました。

一定の業務が終わると、高級料亭で美味い物をたらふく食べて、重鎮たちや取り巻きたちに労われる総理大臣よりも、私はハードモードの仕事をこなして来たレジェンド級の人間ですね!

さあ、堂々と休みます!
誰が何と言おうと!
理屈じゃないのです。


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