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トリガー

思いがけず気分が落ち込むことがあります。
何のことはない日常や、人との会話が、どうしても心に突き刺さってしまい、その場に居ることや、ひどい時には生きているのさえ嫌になってしまいます。
他人に話しても、「え?そんなことで、そこまで考える?!」とびっくりされたり、逆に自分が私の落ち込みのキッカケを作ってしまったのではないかと心配させてしまうかもしれません。
なので、誰にも相談できないし、私にしかわからない原因なのです。

それは、幼少期からこれまでに、私の心やその奥の神経までに植え付けられた、いくつかの言葉に対する恐怖なのです。
具体的にどんな言葉がトリガーになっているのか、改めて整理したことはありませんでした。
そのシチュエーションを思い出すのも嫌だし、トリガーを知ったからといって、自分の身体の奥の奥から湧き出てくる不快感や絶望感をどうすることも出来ないと思っていたからです。
けれど、いつまで経っても変わらない。
不快感に打ち勝って冷静になれないと、ちょっとしたはずみで、二度と誰とも会えない状態になってしまいそうです。
もういい年なので、こんなことでは、長生きだけどひねくれた、一番迷惑を掛かる存在になってしまいそうです。
やはり、私自身をしっかりと分析して自信を持って生きないといけません。
自分探しをするラストチャンスなのだと思います。

そこで、私の中にある、これまで拒絶したかったのに出来なかった、トリガーとなる言葉を挙げていきたいと思います。

・あなたには関係ない。
・不器用ね。
・バカ。無知。(こんなことも知らないの?)
・のろま
・つまらない人(話が続かない)(暗い)
・変わってる。
・余計なことはしないで。
・どうせ出来ないでしょ。(無理しなくていいよ)
・だらしない。(いい加減)
・何も知らないくせに
・無責任(きちんと責任を取って!)
・恐い(きつい)(冷たい)
・あざ笑う、陰でヒソヒソ、クスクス
・呆れてため息
・○○さんはやってくれたのに!(比較)
・○○さんすごいね!(それに比べてあなたは…‥)

↑のような言葉を掛けられたり、態度を取られたら、誰でも不快だし、怒り出すと思います。
気の強い人や自信のある人なら、反論したり、ジョークにして聞き流したりするでしょう。
私の場合は、これらの言葉を否定して、自分はこんな人間じゃない!と思いたい自分と、これらの言葉は全部真実で、私は他人からこんな風に見られているんだと受け入れてしまう自分が居ます。
これらのトリガーは、実際に母、祖母、家族に掛けられた言葉もあれば、学校や職場や、友達同士の集まりでも指摘されたことがある言葉だからです。
つまり、家族と他人が、私をこのように見ていたという証明なのです。
家族だけが私をこう見ていたというのなら、家族の思い込みとして受け流すことが出来ますが、社会に出てなお、不特定多数の人から似たような言葉を掛けられていたら、私の見え方はこうなのだと信じるしかありません。
もしかしたら中には、相手にdisる意図など全く無かったのに、私が思い込みによって否定的に捉えてしまったり、相手の一言やしぐさから、妄想的に連想してしまったものもあるかもしれません。
あるいは、これらの言葉に縛られているために、本当にそう見えるように自分が振る舞っているのかもしれません。
ー どうせ、私はこんな人間なんだ ー
と思い込んでいれば、自然とそうなるように訓練されていてもおかしく無い。
トリガーの言葉が暗示のようになって、私をそのように作ってしまったのだと思います。

トリガーの言葉は、否定的で辛辣ですが、その性質自体は否定されるものではありません。
例えば『のろま』という言葉は、否定的で毒々しいですが、何事もゆっくり取り組む人が否定されて良いわけはないのです。
『のんびり』『ゆっくり』『冷静沈着』など、肯定的に置き換えることも出来るのです。
そう考えると、私は、自分を否定したくて、毒のある言葉に置き換えて、私をいじめているのかもしれません。
親によって、同じ言葉でも『嫌がらせ』や『とっちめたい』という気持ちを載せた言葉を吐かれ続けてきた。
それは私の性質や性格が悪いわけでは無く、『親が私を懲らしめようとしている』ことを感じ取ってしまったがゆえ、自己否定のネタを探し歩いているのかもしれません。
例え自分を潰そうとも、自分の幼少期に親が自分どう見ていたのか、その価値観の方を優先してしまう。
子どもというのは、そんな悲しいサガがあるのです。
本来なら、変わるべきは『親』であり、責任を取るべきは『親』なのです。
しかしその親が、まだ幼稚で無責任では、どうしようもありません。
私の中の自動小銃から、弾を一つ一つ抜いていくしか無いのでしょう。



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