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受け入れ難い事実

毒親問題を語ると、なぜかどんどん気が滅入ってくることがあります。
もちろん母のやってきたことは、私にとって許し難いことです。
しかし実際の母は、何にでも一所懸命で、付き合いも広く、人当たりも良い。
だから母をここまで非難する人は、私1人しかいません。
母は長年同じ仕事を続けてきて、それなりの実績も積んできている。いわゆる『キャリアウーマン』です。
仕事を転々として、どのような職場にもなかなかなじめない私よりもよほど社会に貢献しているのです。
私は母を鬼婆のように思っているけれど、これを身内や知り合いに話すと「そんな風にひねくれた考え方の娘だからお母さんが苦労したのでは?」と言われてしまう可能性が高いです。
「お母さんがせっかくあなたを社会に順応出来るように躾けようと頑張ってきたのに、あなたはそのありがたい助言や忠告を無視してきた。だからどこに行っても上手くいかないのでしょ?」
あるいは、
「そもそも社会に順応できない気質を持っていたから当然の結果になった。お母さんはかなり頑張ってあなたを順応させようとしてきた」
と言われるかもしれません。

暴言を吐く、暴力を振るうなどの派手な虐待があれば、『それは親が悪いよね』と一目瞭然です。しかし母は世間では常識的で良心的な人なのです。
むしろそんな母に対して、ロクな生活も出来ていないのに文句を垂れ流している悪人が、『娘の私』ということになってしまいます。
だから私は母に対する気持ちをここまで深く掘り下げることは出来ませんでした。
誰からも非難を浴びないところで、ようやく自覚の難しかった虐待について掘り下げることが出来たのです。

もしも、現在の大人の私に落ち度があったとしても、子どもの頃の私に落ち度があったとはいえません。
幼い子どもに、人を困らせてやろうとか、これをやったら相手を攻撃できるという思惑はありません。
しかし毒親は、いかにも子どもが知恵者で親を苦しめるような動きをするように勘違いし、それに対しての制裁を、正義のもとに下していると思い込むのです。
だから病弱で表情に乏しい私は、母の気持ちを暗くし、手ばかりを掛けさせる悪者として扱われたのです。
病気の者を殴ったり蹴ったりできません。ムカつく気持ちは、私を離れに隔離したり、病弱なのは自己責任と罵ることで晴らしていたのでしょう。

虐待とは、子どものありのままの存在を拒絶する行為です。

そこに、暴力があるとか暴言があるとか、食べ物を与えないとか、そういう行動面が伴うことがある。どこまで発展してしまうのかは、親の側の忍耐力や常識の持ち方に左右される。
それだけの違いなのです。
でも、世間はそういうことを全くわかっていません。

不登校にならざるを得なかった子に対して
「子どもの側の事情などどうでも良い。嫌なことを我慢して行くのが子どもの義務だ。それをさせることが出来ない親は失格だ。嫌なことから逃げないことで立派な人になれる。子どものためにも無理にでも行かせなければならない」
などという意見がまるで常識だと言わんばかりに溢れています。
こんな意見を本気で言う大人の方こそ、狂っている。
しかし今の世間は狂った意見の方が多数派になってしまっているのです。
 
私は『的確に仕事をこなす能力』に欠けています。
それはたいてい、事務作業を注意深く正確におこない、一つ一つに時間をかけずスピーディーに処理して行く能力のことを言っています。
この能力に欠けた者は、どうしても社会の中でお荷物扱いをされてしまいます。
母はこの能力に長けている方です。
だから私の能力とは真逆です。
こればかりは、生まれ持った性質の違いなので、どうすることもできません。
社会が、『仕事力』というものを、もっと違う目線で判断してくれるようになれば、私は生きやすくなるでしょう。
しかし残念ながら、私の能力の範囲は『社会不適合』なのです。そして今の私が社会不適合と判断されてしまう限り、私にとって自分の能力の範囲は『受け入れ難い事実』です。
さらにその受け入れ難い事実を認めるということは、母の虐待のキッカケについて正当性もあった(鈍臭い子どもを何とかスピード社会についていけるようにしてやりたかった)と認めることになります。
だからこそ、受け入れ難いわけです。

ただもっと広く捉えると、この社会全体が、経済競争という虚しいトラックの中でしか機能していない事実に突き当たります。
競技場の外に出ようともせず、グルグルとトラックの線に従って走り回っているだけ。そこで順位を抜いた抜かれたと大騒ぎし、誰かが倒れて、また新しい人がトップに立つ。

SDGsとは、そんな虚しい競争を離れたところに実現するのではないでしょうか?

人間の生活は競技トラックの中だけに存在するものでは無い。

現代社会に生きる多くの人にとって、それこそが受け入れ難い事実。
でもそのことを受け入れる人が増えた時、その事実が多くの人に周知される時、私は堂々と自分の限界を認め、自分の受けた被害は事実だったと公言できるのでしょう!

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