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罪悪感

※衝撃的な内容を含みます。影響を受けやすい方はお読みにならないでください。

以前、このnoteにも、父のことを書きました。
簡単にご紹介すると、私の父は会社経営に失敗して自ら命を絶ったのですが、実は会社は順調だったのにも関わらず、社員のモラハラによって追い詰められていた。社員のモラハラも一つのキッカケだったけど、生育歴から常に自分を否定するクセが付いていたのでそれがトリガーになったのではないか、ということを書きました。

父がよく、まだ、幼い私たちきょうだいに語っていた話があります。
父が幼い頃(小学校低学年くらいではないでしょうか?)家の縁の下に潜り込んだ猫を引っ張り出して箱に入れ、川に流してしまったという話です。
猫は農薬を飲んで死にかけていたので人の目につかない縁の下で死のうとしたのではないかと。それを引っ張り出して川に流したというのですから、残酷な話です。
大人になってまでそんな話を覚えていて、しかも子どもの私たちに話すなんて、父は自分の行為にずっと罪悪感を抱えてきたのではないかと思います。

小さい子どもだからといって許されないことがある。小さい子どもだったので何も考えずにやってしまったことが、後で考えて大変なことだったことに気づく。しかし後悔先に立たず。罪悪感だけが残り続ける。
父が私たちに話したとき、当然「ひどい!」という反応をしました。父は子どもからそうやって叱ってもらって、やはり酷いことだったんだと自分に言い聞かせていたのかもしれません。

父は10人きょうだいで、1人は幼少期に病気で亡くなっています。父の話では、この亡くなった1人がとても優秀だったらしく、両親(私にとって祖父母)がとても可愛がっていたので、ショックが大きかったのだそうです。
でも父はその『兄』を直接知っているわけではありません。優秀だったというのは、祖父母が話していた話です。
それに比べて自分はいたずらでどうしようもない。
憎まれっ子 世にはばかる
という、ことわざの通り、自分だけはきょうだいの中で長生きするんだ
そんなことを口にしていました。

今思うと、父はずっと両親に愛されず、無価値感を感じていたんだと思います。
結婚もし、子どもにも恵まれたにも関わらず、きょうだいの中で自分の家だけが男の子が生まれなかったことをずっと、
「きょうだいに負けた、負けた」
と言っていました。
今ではそんな発言は男尊女卑の酷い考え方として糾弾されますが、父にとっては別に女性を蔑視していたわけではなく、男子が跡を継ぐという常識がまかり通っていたその当時では、せっかく家庭を持ったのに、一代で潰れてしまう不完全な家庭になってしまったことへの悔しさを言い表したかっただけなのでしょう。

父には発達障害、ADHDの傾向が強くありました。猫を虐待したことも、幼さとADHDの特性から、衝動的に思いついた『イタズラ』だったのかもしれません。
しかしやってしまってから、とんでもない悪事だったと後悔が襲い、大人になっても引きずっていたのでしょう。
そんなヤンチャな父は、知的なきょうだいたちとは別格の存在で、祖父母も頭を悩ませていたのかもしれません。
ところがそのヤンチャ行為を直接叱るのではなく、他のきょうだいと比較してどうしようもないと見限っていたから、父は自分の行為に対する罪悪感を自分の存在を否定することで納得していたのかもしれません。
私が知る祖父母の性格から、父の行為を厳しく叱るということは想像がつかない。
死にかけの猫を川に流すという残虐行為を、叱ったのか叱らなかったのか、今となっては分かりませんが、おそらく父の行動を正しく導くために、本人に向き合って叱ったとは思えないのです。
父の方も、叱られることよりも見捨てられるという恐怖で、両親には告白しなかったのかもしれません。

子どもにとって、幼いがゆえにやってしまった行為について叱られないことは、存在を見限られていることになります。
今、叱らない教育というのがもてはやされていますが、果たしてその結果、父のように存在を否定されていると感じる子どもが増えてしまうのではないでしょうか?
幼さゆえに、人の道から外れるような悪いことをしてしまうこともあります。
本人がまだ自覚できないうちに、取り返しのつかないことをしてしまうこともあります。
しかしその子の知能が発達すると、その行為がいかに悪いことだったのか認識できるようになる。その時、やってしまったことは取り返しがつかないと知って、その子はどれほど苦しむでしょうか?
わからないからといって、放置するのは絶対にNGです。

父の両親は、父がやってしまったことがいかに酷いことだったのかを悟し、一緒に猫を供養するなどの対処をするべきでした。
そもそも、父の行為は、どうしようもないヤンチャ息子が『また』やらかしたこと、として見て見ぬふりをしていたのかもしれませんし、気にも留めていなかったのかもしれません。
そうでなければ、父が一生寂しさを抱え、最期には自ら命を断つような不遇の人生にならないで済んだのかもしれません。

幼少期の心の傷が人の人生にどのような影響を与え、どのような最期を迎えるのか。
そんな研究をすることはおそらく不可能です。
他人がある人の人生を全て俯瞰し分析することはできないからです。
だからこそ、父の人生を身近で見てきて、その末路を知っている私の推察は、エビデンスとはならないけれど、かなり真実味がある話だと思います。

叱ることが悪いわけではなく、
子どもの存在を見かぎり、親にとって都合の悪いところだけを感情で制することが悪いのです。
叱らない=子どもの存在の無視
になることも、もう少し周知されてほしいものです。

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