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心が開放される……

毒親という言葉を知り、アダルトチルドレンについて学び、アファメーションだとか、アサーションだとか、セルフコンパッションだとか、メンタライゼーシャンだとか、マインドフルネスだとか、まあ、いろんな方法を試してきましたが、どれをやってもしっくり来ず、こんなにいろいろ試しても変わらない私は、きっと人として何かが違っているんだと思っていました。

自分を開放するためのワークを知り、開放するためにがんばっても出来ないことで、やっぱり私は何かが異常なのだと思い込んでしまい、もうダメだと諦めてしまう。
何とも本末転倒なことをやってきました。

しかし、これまで勉強してもできなかったことが、noteに自分の過去を丁寧に綴る、ということでできるようになってきている。

何が違うのか?

勉強してきたこと、というのは、他人が他人の経験から編み出した方法だったので、自分の方法は、自分の経験からしか編み出さないということに気づいていなかったんですね。

しかも、多くがアメリカやイギリスから輸入されたもの。
精神医療は、戦前戦中のヨーロッパに端を発するものが多いので、民族も文化も価値観も土地環境も、全てが違うんですから、そのまま翻訳されたものを自分に当てはめようとしても、それは上手くいかないはずです。

もちろん、これらの理論を学んでいたことは、とても大きな基盤です。
サンプルが、日本社会の中で生きる人たちだけだとしたら、世界とは何が違うのか、何が共通なのかを判断することができない。
これは万国共通=人間としての性質
これは日本人や日本社会独特の文化
という振り分けができることは重要です。

私の経験を綴りながら、父と母が、そして祖父母たちが、どれだけ独特の世界に生きてきて、どれだけ自分に迷いながら子育てをしてきたのか、ということがわかってきました。

もちろん、彼らが必死だったからといって、私に課したものの大きさが減刑されるわけではありません。
私の人生にとって、彼らに課されたものは、あまりにも大きく、消えることはありませんから。

でも、一方で、私がそれらに囚われて、自分自身の殻に閉じこもり、世の中を恨んで生きていくことは、両親や祖父母と同じように、誰かにその負担を押し付けていくことになり、私自身が無意識に『毒人間』になってしまうことを意味します。

罪を犯したら、その償いをしなければいけない。
償いとは、謝罪の言葉だったり、賠償だったり、あるいは二度と近づかないように縁を切ることだったり……

現代社会では、これが罪への対処とされていますが、果たしてそれをやって、被害を受けた方は本当に開放されるのでしょうか?

もちろん、大きな罪に対して、目に見える謝罪を受けることは被害者の浮かばれない想いを解消する一歩として重要です。

でも、きっとそれは、何万分の1の慰めにしかなりません。

さらに、目に見える謝罪に囚われていたとき、それが無かった時の絶望感は大きいです。

でもきっと、被害者にとって必要なのは、そういうことでは無いのだと思います。

自分が受けてきた被害は、紛れもない事実であることを、自分自身できちんと自覚し、自分を罪の意識から開放してあげること。
そして、自分自身が加害者と同じ闇の中に堕ちていかないように、楽しく有意義に生きる決意をすること。その権利があることを自覚すること。
なのだと思います。

個人的なノートに書いているだけでは、どうしても恨みつらみで字が乱れ、悲しく悔しくなっておしまいでした。
けれど、このnoteで、不特定多数の人に発信するという目的で書いてきたことで、冷静に自分の生い立ちを整理することが出来てきています。

1人として同じ人が存在しないこの世の中で、これを真似たら上手くいく、なんていう人間関係は決して存在しない。
さまざまな情報を取り入れて、自分自身の体験と向き合う。
これこそが、自分の人生を、自ら開放する方法なんだな、と気づいてきたこの頃です。

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