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招かざる子

1996年に放映されたドラマ『イグアナの娘』を観る機会がありました。
私の大好きな岡田惠和さんの脚本。
ちょっと無理な展開もありつつ、人間模様を丁寧に描いて、ショッキングなエピソードも盛り込みながら、やっぱり人生って良いなと思わせる展開が、いつの時代も色褪せないし、今現在の生き方を見直してみようという勇気を与えてくれます。

岡田さんの脚本もさることながら、この原作こそが、その後社会問題となる毒親の走りだったんですね!

母親から冷遇されたり、教育虐待を受けてきた萩尾望都先生が、こ自分の波瀾万丈の生い立ちに何とか意味を見出そうとして描かれた漫画だそうです。

ストーリーは、主人公リカが、生まれた時から母親に「あなたはイグアナだ。あなたは幸せにはなれない」という呪いをかけられて育ち、高校生になって、恋愛や友情に憧れるものの、母親にことごとく邪魔をされ、常に自分のせいだ、自分は幸せになれない、と自らにも呪いをかけて卑屈になってしまう。自信を無くしてすぐに心に鍵を掛けようとする主人公を、友人や妹が励まし救っていくという展開です。

物語なので、リカがそのような境遇に置かれてしまう理由を、母親の過去にあるとして、完結しますが、主人公か母親に呪縛を掛けられ、自身を失っていく過程や、母親の支離滅裂な行動(娘を極端に心配することもあれば、突然突き放したり、人格否定をしたりする)は、現実に「ある、ある」と思えます。

結局、母親にはある秘密があり、それがばれて最も大切な家族を失うことが怖かったというのが理由なのですが、実際にはそんな理由など子どもには分かるはずがなく、分かったとしても、自分の不安を子どもにぶつけて良いはずがありません。

ストーリーはリアルなのに、母親の秘密だけがファンタジー。この辺りの展開から、萩尾先生が、ご自身が受けた虐待に対して、意味を見出そうとされたけど、結局わからなかったという苦しみではないかと、私には感じられました。

しかし、このドラマを観て気付くのは、教育虐待(全ての虐待にも言えますが)というのは、親が生まれた子に対して『招かれざる客』のような感覚を持っていることが原因なんだろうなということです。

本来なら、子どもを生み育てることは、親の人生を賭けた大仕事になるはずです。
動物なら、自分の命を次世代に引き継ぎ、種を保存させることが宿命です。
だからこそ、どんな子どもであろうとも、自分の命に替えても守ろうとします。

人間は、まるで欲しいものを買うように、子どもを生みます。
あるいは妊娠することを想定しない快楽のための性交で、『できちゃった』から仕方なく生みます。

すごく辛辣な言い方ですか、本当にそういう親が多いと思います。

どんな子どもが生まれるかもわからないのに子どもを持ち、その子どもが希望に叶っていないと不満を抱きます。育てる気力も湧きません。
または、子どもを持つことそのものが『想定外』だったりします。
次世代を生み育てるという意識などありません。
親にとって『招かれざる客』なのです。
だからこそ、育てる苦労に意味を付けずにはいられません。
そこで、『自分の希望に少しでも近づけるために修正する』(教育虐待)か、『自分のストレス発散の吐け口として利用する』(身体的虐待、性虐待、人格否定)か、無視(ネグレクト)か……
そういう方法で大変な子育てを乗り切るしか無くなってしまうのです。

萩尾先生は、私とは少し世代が違いますが、虐待を受けた世代的には同じ世代になると思います。
つまり親世代が、戦中・戦後であった世代。
日本では、国を守り発展させるために子どもを生めと言われていた時代です。

母親だけでなく、父親や父方の家族や男尊女卑の社会からも、子どもは、家や国を存続させるための道具として見られていた時代。
自分たちが単なる道具として育てられてきたからこそ、我が子に対しても道具として利用価値があるかないかで判断するしかない。
人として愛情を育む術を知らないので、子どもに対して無機質な対応しかすることができない。

そうやって、この国には『招かざる子』が増殖されていき、自分が『招かざる子』として蔑ろにされたきたがゆえに、自分が生んだ子どもも招かざる子としか思えない。
そういう連鎖が続いてきて、今や『招かざる子』がこの国の大多数を占めるようになってしまったのでしょう。

断ち切るためには、強い意志を持って、
「私はこの世界に、歓迎された命だ」
と思い切ることか必要です。

例えイグアナであっても、すべての命は、この世界に歓迎されて生まれてくる。
イグアナのような動物だからこそ、自分のことを『歓迎されない、どうでもいい命』とは思いません。
そんな理屈を考えるのは、知能が発達した人間だからこそ、というのが皮肉な話です。

人間は知能が発達したからこそ、人間同士で傷つけ合い殺し合う。
頭が良いことは、実は自然の摂理を歪める罪深いことなのかもしれませんね。

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