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集合的幻想③

自分の意見よりも、自分以外の他の多数派の意見を妄想して、それに合わせようとする『集合的幻想』
それにより、
カルト的な思想の蔓延
汚職の放置
などが起き、
人間同士の助け合いや思いやりとはかけ離れた行為がどんどんと広がっていき、
世の中がまるで
『悪魔が支配しているような世界』
になっていきます。

ウクライナ侵攻
イスラエル攻撃
などのニュースも、突き詰めていけば、集合的幻想の応酬だったのでしょう。

ロシアは、ウクライナが西ヨーロッパ諸国と親密になって攻撃しようとしているという『妄想』を抱き、
パレスチナは、イスラエルが中東イスラム諸国と親密になって、自分たちへの迫害を強めようとしているという『妄想』を抱き……

おそらく市民レベルで、一人一人に本音を聞いてみれば、そこまでして、敵対意識を強めて攻撃を仕掛けることなど望んでいないと答える人が大多数ではないでしょうか。
しかし集団の場になると、きっとそんな考え方は非国民的であって、少数派であって、他の多くの国民は自分の国を守りたいという意識が高く、体を張ってでも守ろうとするのだろう、という幻想を抱かずにはいられなくなってしまうのです。

ウクライナも、はじめは一方的な攻撃の被害者であり、(誰にかはわからないけれど)守られるべき人々だったはずが、今や自国を守るためには自分たちで抵抗し、ロシアを駆逐するしかなくなってしまった。
ウクライナ国民は、戦いたくない、と堂々と言えなくなっている。
自分は戦いたくないし、死にたくないけど、他の多くのウクライナ人は死を恐れずに戦って国を守るはずだと思い込んでしまうのです。
もちろん心からそう思って戦っている人もいるでしょうが、それが多数派かどうかというのは疑問です。

生存本能よりも、闘争本能が勝る人は、あまりいないでしょう。
戦って国を守るというのも、そもそもは生存本能なのですから、本来なら戦わずして生き延びることが最大の望みなのです。

どちらの国も、自分たちの国や民族が『生きる』ことが目的だったのに、何故か生きるためには敵を攻撃しなければならないという『幻想』に囚われてしまったのです。

『集団の思い込みを打ち砕く技術』
の中では、集合的幻想を打ち砕くために必要なのは、全ての人の中にある『誠』の心と、相手の人の中にある『誠』を信じる力だと説いています。
この本の中では、
誠とは
『すべての人は基本的な属性を共有している』と考え、『自己と他者のどちらにも忠実であれという教え』であると解説しています。

どんなことがあっても生を全うしたい
人間同士で共存したい
人間同士で争いたくない

これは人間の本質的な欲求でしょう。
それを曲げてまで、何かのために戦わなくてはいけないという状況は、『誠』が忘れ去られた状態です。

何かのために……
その何かとは、集合的幻想が作り出した実在しない悪魔なのです。
誠を持って、相手方と話をすれば、文化や言葉が違っても、同じ思いを共有していることがわかるはず。
しかし集合的幻想に囚われた人たちは、その真実を見破られるのを最も恐れます。

つい先日、埼玉県議会で、虐待防止条例の改正案が可決されそうになりました。
その内容は、子どもを育てる親をがんじがらめにして苦しめ、子ども自身の安全確保にも繋がらない悪法でした。
集合的幻想に囚われた人たちは、議会の多数派が賛成しているのだから、覆せないだろうと信じ、諦めの空気が漂っていました。
私もこのニュースは、とんでもないと思いつつ、きっと成立してしまうのだろうと思っていました。
しかし、どう考えてもおかしいという声が全国から集まり、条例案が却下されたのです。

自分たちで選んだ政治家の決めることには抗えない。
集合的幻想は、そう思い込んでいますが、『誠』の心で多くの人が胸の内を明かした結果、それはただの幻想だったということが明らかになったのです。

トップにお借りした画像は、かわいらしい草が綺麗に並んでいる和やかな風景です。
人間は本来、こんな素朴な美しい存在。
イバラの蔓を他人に巻き付けて苦しめるような存在ではないはずなのです。
しかし集合的幻想に囚われると、隣のイバラが私を攻撃しようとしていると思い込んで、自分からイバラの蔓を伸ばしていってしまいます。
周りの草も、伸ばされたイバラに対抗してイバラを伸ばし、やがてこののどかな風景は地獄絵図になってしまうのでしょう。

誠とは、人間は全て、この可愛らしい草のような存在であって、みんなが並んで美しい風景を作ることができると信じ、みんなで心地よい世界で生きていこうとする心なのだと思います。



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