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『こちらあみ子』観た

2022年公開の映画『こちらあみ子』を見ました。

公式ホームページ

観終わって、なんとも言えない虚無感。
後からすごく気持ちが落ち込みました。

あまりにも映画鑑賞後の余韻が大きかったり、理解が追いつかない場合、私はよく他の人の感想やコメントを参考にします。
すると多くの人が、私と同じ虚無感や落ち込みを経験していることがわかりました。
一方で、『つまんない』『意味不明』といった辛辣な感想もありました。
どちらも同じなのだと思います。
『つまんない』や『意味不明』という感想を書いた方も、おそらく虚無感などを感じたのではないかと思います。
『意味不明』なのではなく、『意味を理解したくない』のではないかと思います。

先にこんな感想ばかり述べていても『意味不明』ですね。
以下、ホームページのあらすじを引用↓

☆☆☆☆☆

あみ子はちょっと風変わりな女の子。優しいお父さん、いっしょに遊んでくれるお兄ちゃん、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいるお母さん、憧れの同級生のり君、たくさんの人に見守られながら元気いっぱいに過ごしていた。だが、彼女のあまりに純粋無垢な行動は、周囲の人たちを否応なく変えていくことになる。誕生日にもらった電池切れのトランシーバーに話しかけるあみ子。「応答せよ、応答せよ。こちらあみ子」

☆☆☆☆☆

うーん。
このあらすじは、不親切だなーと改めて感じました。
これでは『ほのぼの系、変わった女の子の成長物語』を想像してしまうよな、と。
この紹介文で観にきた人たちが「意味不明だった!」と言いたくなるのは当然ではないかと思います。
ただ、この映画の衝撃は観ていくうちにジワジワと感じられるものなので、あらすじに公開できないのはわかります。

以下ネタバレを含む、私のストーリー概要です。↓

★★★★★

あみ子は、おそらく発達障害と知的障害を持つ女の子という設定です。
あみ子の無邪気な行動は、時に周りの人に残酷な事実を突きつけます。
あみ子のためを思って、周りはいろいろと気を使うのですが、あみ子には通じません。
そしてだんだんと疲弊していきます。
あみ子には、周りの人が何を感じ、何を言おうとしているのかを理解することができません。
その時その時の、自分の感覚だけで生きています。
けれど誰かを傷つけたり、誰かを困らせたりしたいわけでは無いのです。
実際にあみ子が誰かを意図的に攻撃したことは一度もありません。
けれど周りの『あみ子に親切な人々』はどんどん追い詰められていき、崩壊していくのです。

★★★★★

原作は今村夏子さんの小説で、こちらもかなり評価の高い作品です。
監督がこの小説に魅せられて初めてメガホンを握った作品だそうで、おそらくその感動そのままに、丁寧に作られたのだろうなと感じられます。

ホームページで紹介しているあらすじは、多くの人が娯楽映画に期待するファンタジックなストーリーを感じさせるのですが、実際に描かれているのは、避けようのない、結論などない、この社会の中で実際に起きている『見たくない、認めたくない現実』なのです。
だからこそ観た人は、自分がただの観客で居る事を許されない。
特にあみ子のようなお子さんに関わる立場である、親、教師、支援者、関係者にとっては、日々葛藤している答えの無い現実なのです。

『つまらない』『意味不明』と思った人たちの中には、そういう子どもと一切関わることのない世界で生きている人たちもいることでしょう。
でも実はそういう人たちこそが、社会の分断を作り、インクルーシブを進める際の『足かせ』になっているわけです。

障害のある子たちには、優しくしよう。
困った人は助けよう。

関わりのない人たちには、そんな素晴らしく優しい世界が、自分とは関係のない場所で展開していると思うかもしれません。
しかし、救われる人、救う人がウィンウィンで上手く行くケースなど、宗教の世界くらいしか無いのです。

この社会にいる限り、目を背けてはいけないこと。
もしも見える範囲で何事もなかったとしたら、このように『映画』や『小説』をきっかけに考えてもらいたい。
この映画を観て衝撃を受けた人が多ければ多いほど、この社会はまだ捨てたものではないのかなと思うのです。

前に紹介した『システム・クラッシャー』との共通点を指摘している感想もいくつかありました。

あみ子も、システム・クラッシャーのベニーも、あなたのすぐそばで生きている。
あなたと同じ時間軸に生きている。
それを知った時、あなたはどうしたら良いのか?

答えは無くても、考え続ける意識を持ち続けていたいものです。

〜〜〜おまけの自分語り〜〜〜

ずいぶんむかし、私は障害のある子たちのクラスを担任していました。
言葉のない重度の障害のある子が多い中で、A君は言葉も達者で、学年相応ではないけどお勉強が出来、明るく元気いっぱいの児童でした。
実の親から離れ、児童養護施設で育ち、若い里親の元に預けられることになったのです。
そのタイミングで私のクラスに転入してきました。
クラスの中では、他の児童の世話をしたり、教員のお手伝いをしたり、まだ中学年なのにリーダー的存在。A君のおかげでクラスの雰囲気も、明るく活き活きした感じに変わっていきました。

そのAくんが、1年も経たないうちに転校することになりました。
理由は、里親のママにがんが見つかり、A君を育てられなくなったからでした。
里親さんの病気という建前ではありますが、ママはA君の育児に疲弊していて、面談では暗い顔で相談を持ちかけられることがあったので、こちらもやり切れない思いでした。
明るく元気で屈託のないA君。
ある時、夜中に眠っているママにバケツで水を掛けたのだそうです。
びっくりしたママが、どうしてそんなことをしたのか聞くと、A君は答えました。
「だって、おねしょをしちゃって冷たかったから、ママも冷たくしようと思った」
その時、子育て経験のなかった私も、一緒に担任をしていたベテランの先生も、ママにどう言って良いのかわかりませんでした。
A君が施設に戻されることに悔しさを覚えるとともに、里親さんの境遇には同情と「お疲れ様でした」という気持ちしかしありません。

A君の境遇は、あみ子にそっくりです。
あれからもう何十年も経っているのに、社会には、あみ子やA君を救えるような手立てを見つけた大人はいないのだなと痛感しました。

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