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大したことじゃない

子どもの私が、自分の悲しさ苦しさを表現できなかった…表現しても誰も大したことだと取ってくれなかった。

これこそが、私のトラウマが消えない根本原因なのでしょう。
幼児期に、病気で苦しい思いをしていても、そのくらい大したことじゃないと放置され、
友達とケンカをして悲しい気持ちになっていても、「言い返せるくらい強くなりなさい」と言われ、
小学校でひどいイジメにあっても、「そのくらいのことは誰でもある。嫌なら嫌と言えば良い」と言われ、
宿題が間に合わないと泣いていると、親がさっさとやってしまい、「これを持っていけば良いでしょ!」と押し付けられ……

殴られたわけでも、バカだと罵られたわけでもないけれど、これらの出来事はすべて

「私は大した人間ではないので、きっと私が悲しい苦しいと思うことは、他の人には大したことはないんだ。大したことでも無いのに悲しい、苦しいと(他人に)言うのは、恥ずかしいことなんだ」

という自虐思考に結びついてしまったのです。

理想が高過ぎて、あるいは完璧主義で、自分の力の無さを実感したり、他の人の手前、へりくだったりするのではなく、心から自分の存在が、他の誰と比べても軽いんだと思うようになってしまいました。

しかし大人になると、自己主張できないことや遠慮することが不利に働き、誰からも見下されるようになってしまいます。
その最も顕著なものが、夫からのモラハラでした。
時々は強く反論することもあったので、今ではあまり嫌がらせをすることは無くなりましたが、結婚当初は、夫のワガママや横暴に言い返すこともできなかったため、夫は私を見下し、家事育児を手伝わないにも関わらず、細かいやり方を指示したり、自分が気に食わないと不機嫌になることが多かったのです。
その夫の態度を相談に行った先の相談員にさえ、「あなたのそのいい加減な態度が夫を怒らせるのよ。しっかりしなさい!」
と叱られる始末。
今思うと、その相談員こそ問題だったのだと思いますが、自分の意思をはっきりさせず、オロオロしているばかりの私に、他人を苛立たせる何かがあったということもあるでしょう。
辛いから相談に行ったものの、幼い頃から「大したことない」と言われて相手にされなかったので、もしかしたら自分の思い過ごしではないかという迷いもあり、「この人、本当に辛いの?それとも冷やかし?」と相談員に思われてしまったのかもしれません。

その後、かなり重度の鬱病(本当は毎日希死念慮があり、身体を動かすのもやっとだった)に罹っても、医者からは「軽度なので言われた通りに服薬していれば治る」と軽くあしらわれ、結局は寛解までに6年という歳月を費やしたり、
さすがに離婚を考えて弁護士に相談に行くも、「離婚しても良いけど、あなたにも落ち度があるのだから慰謝料は取れませんよ」と言われたりと、『大したこと無いのに、大騒ぎする人』というレッテルをあちこちから貼られ続けました。

本当に、周りから見れば『大したことじゃない』ように見えるのかもしれません。
私が、小さなことを大げさに捉える性格なのかもしれません。
けれど人の感覚など、みんな違うので、私の感覚が他者より敏感なことは間違いなく、その苦痛が他者より大きいことも確かなことなのです。

慰謝料を取れないという弁護士の話は法的根拠のある事実ですが、いじめられたり、モラハラを受けたり、自殺したいくらい苦しい気持ちを抱えていることを『大したことない』と断言する相談員や医者は、職務として不適格だったと思います。

『大したことじゃない』

小さい頃からそうやって、私の感じ方を否定されることで、私の存在を軽んじられてきました。
どんなに自信を持てるように頑張っても、根本的に私のやることが大したことではないと軽んじられる恐れがあるので、はじめから無理な努力をしたくない。

昨年、難易度の高い国家資格に挑戦し、合格を勝ち取りました。
私はできる!と自信を持ったのもつかの間、それを活かすことができない自分にがっかりしました。
そう。
何をやっても、何を成し遂げても、所詮私のやることは偽物で『大したことじゃない』のです。
それは小さい頃から植え付けられた無価値観の影響です。
これまでそのことに気づかずに、
「これを頑張ったら、私は大した人間になれるかもしれない!」
といろいろなことにチャレンジしてきました。

やっと気づきました。
私は例え総理大臣になったとしても、自分のことを「大したことない」と思って自分を蔑むのでしょう。
努力する前に、洗脳を解くこと。
今年、時間に余裕ができたのは、そこにメスを入れる時間が必要だったからなのかもしれません。

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