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黒田長政の辞世 戦国百人一首57

軍師・黒田如水(孝高/官兵衛)の息子が黒田長政(1568-1623)である。
関ヶ原の戦いでは東軍に加わった。
戦闘や調略で活躍した一番の功労者として、筑前名島に52万3000石を与えられた。博多に隣接する福崎に城を構え、福崎を「福岡」と改称して福岡藩の初代藩主となった人物だ。

黒田長政57

此の程は 浮き世の旅に 迷ひ来て 今こそかへれ 安楽の空

私の人生は迷ってばかりの旅であった。
今こそ安楽の空へと帰ろうではないか

現世の重圧から解放されてようやく自由に安らげる。
そんな長政の思いが辞世にあふれているようで、死に対する覚悟や強がり、現世への心残りなどはあまり感じられない。

「ウキウキ」とは言わないが、どこか空に還っていくことを心待ちにしているようにさえ聞こえる。
彼は現世での栄達を楽しめなかったのだろうか。
関ヶ原の戦いで一番の武功を上げ、52万3000石の大封を得た男が?

彼は実は戦場で亡くなったのではない。
1623年、既に病にかかっていた長政が、徳川家光の第三代将軍宣下のために先に上洛していた時、宿泊していた京の報恩寺にて亡くなった。
死因は、胃がんもしくは胃潰瘍や十二指腸潰瘍のような潰瘍系の病が死因だったと考えられる。
彼は戦場で「無念の死」を遂げたわけではないから、自分の死について前向きに考える時間が多少なりともあったのかもしれない。

では、死んで行く彼は、一体何から解放されるというのだろうか。

先にも述べた通り、黒田長政の父親は、豊臣秀吉の天才軍師として知られる黒田如水である。長政には偉大な父親の二世としての苦労があったようだ。

長政は、父親のような知略タイプの軍師ではなく、戦闘タイプの武将だった。ただ、行動を起こす前にじっくり考える一面もあり、それが優柔不断だと感じる父親の如水に注意されたこともあったという。

長政の関ヶ原の戦いでの活躍ぶりは目覚ましかったが、それも如水には不満だった。
西軍の小早川秀秋や吉川広家らの寝返りを引き出す交渉に成功し、実戦では石田三成の家老であった強敵・島左近を討取る東軍一の大活躍をした長政。
その働きぶりに、徳川家康から右手を取られて感謝され、のちには感状を賜るほどだった。
しかし、それを彼が如水に報告すると、
「その時空いていたお前の左手は何をしていたのだ(家康の首を取るチャンスだったのに、お前は天下を狙わなかったのか)?」
と尋ねたという。

周囲からは「如水の息子」として常に父親と比べられ、その父親からはいつも行動を監視されて感じたプレッシャーと緊張感。
常に重圧にさらされていたのかもしれない。

藩主としては、平時は贅沢や見栄を張ることを禁じて倹約を志した。
食事は一汁二菜。
さらに、毎月、家老と下級武士の代表者を集め、対等に藩政についての意見を自由に述べさせる機会として「異見会」を催した。君臣ともに、「他言無用で怒らず恨まず」を確約するという風通しのよいシステムも運営して家臣たちにも気配りを見せた。

期待に応える息子であろうとした如水の息子・黒田長政。
良い主君であろうとした藩主・黒田長政。
もしかすると、そんな境遇を少しばかり窮屈に思っていたのかもしれない。