斎藤道三の辞世 戦国百人一首㉜
近年、斎藤道三(1494-1556)の生涯については見直されている。
彼が僧侶から油売りとなり、そこから武士になって謀略を尽くして美濃の守護代になったという一代記は、実は父親とのリレーで二代による国盗りだったと考えられつつある。
捨ててだに この世のほかはなき物を いづくかつひの すみかなりけむ
もうこの世にある我が身以外の他のものは捨ててしまった。
何処になるのだろうか、私の終(つい)の棲家(すみか)は。
あらゆる手段を使って成り上がっていく道三は、「梟雄(きょうゆう/悪の英雄)」と呼ばれ、それが今やキャラクターとして小説、ドラマ、マンガ、ゲームなどで定着してしまった。「美濃のマムシ」だ。
そんな貪欲に欲しいものを手に入れてきた男だが、彼の辞世では、自分の命以外のものは全て捨ててしまったと言っている。
梟雄・斎藤道三が命を散らせたのは、息子の斎藤義龍と争った壮大な親子喧嘩、1556年の長良川の戦いである。
この戦いは、斎藤利政と名乗っていた彼が出家して道三と号し、すでに家督相続していた長男・義龍の廃嫡を考えていたときに起きた。
道三は義龍よりも、二男、三男のほうを可愛がっていた。
彼と義龍との間は険悪になり、義龍が弟たちを殺して道三に挙兵したのである。
もともと道三は息子の斎藤義龍の武将としての器量について疑っており、「無能」と軽んじていたという。
しかし、長良川の合戦のときに、義龍の采配を見た時に自分の評価が誤っていたことに気づき、後悔したときはすでに手遅れだった。
道三の娘・帰蝶(濃姫)は織田信長の正室となっており、信長と道三とは同盟関係にあった。そのため、信長は長良川へ援軍を送り込んだが、それも間に合わなかったのである。
道三は、自分の末っ子(詳細は不明)に遺言も残している。
其の方の事、堅約の如く、京の妙覚寺へ登られ尤もに候。一子出家、九族生天(きゅうぞくしょうてん)といへり。この如く調(ととの)へ候も一筆泪ばかり
そなたのことは、約束してあったように、京の妙覚寺で出家するのが良いと思う。「子供が一人出家すれば九代の親族が天の最上位に生まれ変われる」ともいう。このように考えてはいるが、僧侶にさせてしまうことについては、この筆をもちながらも不憫で涙が出てしまう。
辞世の句は、この遺言に添えられていたものである。
勝った息子の義龍側には、道三の旧臣も沢山いた。
道三は、彼らによって手厚く葬られたという。