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武田信玄の辞世 戦国百人一首61

武田信玄(1521-1573)には持病があり、亡くなる前には喀血を繰り返していたという。
彼の病名は労咳(ろうがい/結核のこと)ではないかとの説もある。
享年53。死ぬには早い年齢だった。
彼の死のおかげで織田信長も徳川家康も命拾いした。
なぜなら彼は、上杉謙信と並んで戦国最強と呼ばれる武将だったからだ。

武田信玄 61

大抵 還他肌骨好 (大ていは地に任せて肌骨好し)
不塗紅粉 自風流 (紅粉を塗らず自ら風流)


おおよそ此の世を生きるには、世の中の流れに身を任せるべきなのだ。
見せ掛けで生きてはいけない。
自分を飾らず生きることがすばらしいのだ。

武田信玄といえば、上杉謙信とやりあった1553年から1564年まで続いた川中島の戦いが有名だ。
ここでは詳細について触れないが、この戦い以降、武田・上杉の両者は直接対決を避けるようになった。
そして信玄の現実的な関心はより織田信長、徳川家康へとシフトしていく。

信玄は、1570年頃から織田信長とは表面的には友好関係を保ちながらも徐々に信長の敵対勢力である足利義昭、浅井長政、朝倉義景、本願寺、松永久秀などと接触し、信長包囲網を構築した。
そして織田信長と同盟を組んでいた徳川家康の領国へと攻め入った。

1573年の三方ヶ原の戦いである。

信玄とも家康とも同盟している信長が家康に援軍を送ったので、信玄は武田と織田との同盟破棄を通達。
徳川方の野田城を落とし、長篠城へと入った。
武田軍の勢いがそのまま続けば、織田・徳川の立場は非常に危なかった。

ところが、信玄の体調が悪化した。
実は、野田城を陥落させた頃から信玄は喀血していたという。
これから信長を潰そうという時だけに、タイミングが悪かった。
一度は回復したかに見えた信玄だったが、結局病は好転せず、武田軍は甲斐国へと戻っていく。
そしてその道中で信玄が亡くなってしまったのだ。

信玄の死は3年間秘匿された。
その3年間、武田家としてはあくまで信玄が病気である、としていたが、実際のところ信玄の死の事実は諸国へすぐに広まってしまったようだ。

信玄の辞世以外に残された遺言の中に、家督を相続した武田勝頼に残した信玄の終生のライバル・上杉謙信に関する言葉がある。

遺言の中で信玄は
「上杉謙信とは和議を結ぶように。謙信は男らしい武将であるから 若いお前を苦しめるような行いはしないであろう。和議を結んで頼っていけば、決して約束を破る男ではない。私は最後まで謙信に頼ることが言い出せなかったが、勝頼は必ず謙信を頼りとせよ。上杉謙信はそのように評価してよい人物だ」
と言い残したと『甲陽軍艦』に記載されている。

のち、武田氏と上杉氏とは和睦が結ばれた。
武田勝頼は、1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に惨敗した後、上杉謙信に救援を要請した。
上杉軍に護られたおかげで甲斐国へと帰国することができたのである。

信玄の上記の辞世(遺偈)は、少々難解だ。
彼が辞世の中で言いたいのは
「自分を飾らないことが素晴らしい」
ということだろう。
本音で生きろ、ということか。

もしかするとこの辞世には、本当は上杉謙信との和睦を結びたくても意地になって結ばなかった自分への反省の意味もこもっていたのではないだろうか。