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息をするように本を読む52 〜伊藤計劃「虐殺器官」〜


 このちょっとゾッとするタイトルの小説の著者名、伊藤計劃は、イトウ・ケイカク、もしくは、イトウ・プロジェクト、と読む。グループ名ではない。個人のペンネームだ。

 この本を、次女が大学の図書館で借りてきて読んでいた。
 選択している講義の担当教授に勧められたという。
 何か、すごいタイトルだね。
 私の言葉に、でも、内容は面白いよ、いや、興味深い、という意味でね、と次女は言った。
 よかったら、読んでみて。
 ちょっときつい描写もあるけど、それだけじゃないし、そこがメインじゃないから。

 返却期限までまだ余裕はあるから、ということだったので、読ませてもらうことにした。


 著者は日本人だが、物語の舞台はアメリカ。
 ところどころかなり残酷な場面があるが、淡々とした筆致で書かれているのでまるで翻訳物を読んでいるようだ。
 時代は、2001年9月11日の同時多発テロから、おそらく20年以上過ぎたくらいと思われる。
 この作品が発表されたのは2007年だから、そこから見たらごく近い未来ということになるのだろうか。

 物語の主人公はクラヴィス・シェパードという、米軍の情報特殊検索群i分遺隊の若き大尉。
 i分遺隊は同じ情報特殊部隊の別の部署からは、「蛇喰らい(スネーク・イーター)」とか、「濡れ仕事屋」と呼ばれている。
 早い話、潜入暗殺が専門だ。(何に濡れているのかは、お察しの通り)
 よくあるアメリカ映画では、似たような任務をグリーンベレーとかデルタフォースなどの特殊部隊が担っているが、小説内ではもっと暗殺に特化した特殊分隊が存在する。

 2001年のテロの後(物語の中ではさらにその後にサラエボで核爆弾を使った超過激派テロが勃発する)、米国を始め先進諸国ではテロ対策のため、徹底した監視体制社会が構築されている。
 
 生体認証や情報処理技術が飛躍的に進歩し、人の移動や金銭の流れはもちろん、物流も完全に電子化されて、その情報は全て当局の管理下に置かれた。
 
 完璧な追跡可能性(トレーサビリティ)。自分たちのささやかなプライバシーと引き換えに安全と自由を手に入れる。
 おかげで、テロはすっかり鳴りを潜めた、はずだった。
 確かに先進国内テロは激減した。しかし、世界のいわゆる後進諸国といわれる地域では、なぜか紛争が急激に増加していた。それも小競り合いでは済まない、内戦や大規模虐殺と呼ばれるようなものばかりだ。

 いくつもの非人道的な大量虐殺が行われている地域に潜入しては「蛇喰らい」として、その元凶となっているテロリストや反乱軍の主導者を抹殺する任務についてきたクラヴィスは、ある日、これらの紛争の陰には必ず、ジョン・ポールというアメリカ人がいると聞かされる。しかし、彼の情報は極端に少なく、確認することは難しい。
 
 ジョン・ポールは果たして実在するのか。実在するなら、本当に人々を操って紛争を起こしているのか。その手段は何か。そして何よりその目的は何か。


 この時代の軍事技術は凄まじく進歩していて、バイオテクノロジーを利用した潜入追跡用機器は恐ろしいまでに高性能だ。そして、その描写が詳細でとてもリアルなのだ。
 
 クラヴィスたち特殊隊員が任務時に着ているインナーは特殊繊維で身体に密着して汗を吸収し、その水分をまた体内に戻して着用者が脱水症状になるのを防ぐ。
 また、衣服や装備に吹き付けるナノスプレーは、カメレオンのように周囲の環境を認識し、その色彩、質感を再現して、着用者の姿を消してしまう。
 彼らが眼に着用しているコンタクトレンズも、極薄の受信機兼モニターになっている。もちろん画像の記録も出来る。少し前からある、眼鏡型のウェアラブルコンピュータのコンタクトレンズ版、と言えばいいだろうか。
 
 彼らを作戦の目的地まで運ぶ航空機、軍用機の外殻はバイオテクノロジーで開発された人工筋肉で覆われており、気圧や気流、重力など周囲の環境に応じて自律的に形状を変え、より安定した飛行を実現する。
 これらは無機質な金属を使った物と違って、生々しくよりグロテスクだ。
 
 物理的な兵器だけではない。
 人間をより効率的に使う方法も進歩した。
 どんな事情であれ、殺人はストレスだ。よほどのサイコパスでないかぎり、精神的ダメージを負う。特殊訓練を受けた優秀な兵士の数は限られている。戦闘や任務から帰るたびにPTSDを抱えていては人員が不足する。
 そこで開発されたのが、戦闘適応感情調整システム。
 カウンセリングや脳医学的処置により、感情や倫理観を戦闘用に組み換えるプログラムだ。これにより、任務に対する不安や恐怖やためらいは感じなくなり、さらには痛覚を操作して、痛みを知覚できるが感じないようにする。負傷しても痛みで戦闘に支障が出ることはなくなる。
 
 クラヴィスは優秀な隊員で、今まで数え切れないほど人を殺してきている。
 それにも関わらず、彼のひとり語りは、実年齢より幼く、どちらかと言えば繊細で無垢な印象を与える。それはきっと、このプログラムのせいなのだ。
 人は痛みや悲しみや心の葛藤によって成長し円熟する。彼はそれをずっと奪われてきたのだから、精神が未熟なままなのだろう。

 やがてついに、クラヴィスはジョン・ポールを追い詰める。
 そこでクラヴィスは、ジョン・ポールが行なってきた非人道的行為の目的と、その驚くべき手段を知ることになる。
 そして、この世界の本当の形を。

 物語の最後に、クラヴィスはある選択をする。それはジョン・ポールのそれとは真逆のものだった。
 貴方は彼の選択をどう思うだろうか。

 この小説を読んでいると、どこまでが現実でどこからが創作がわからなくなる。
 もしかしたら、すでに今の世界はもう、この小説に書かれているそっくりそのまま、なのではないのか。ひょっとしたら、この物語はフィクションではなく、もう事実なのではないか。
 そんなふうに思えて、ゾッとした。


 伊藤計劃氏は、この作品がデビュー作品で、その後、長編2作と短編2作を書いている。
 しかし、2009年、執筆中だった4作目の長編を完成させることなく病没した。
 このデビュー作を執筆する前から、既に病魔に冒されていたそうだ。
 享年34年。若い。若過ぎる。もっと書きたい、書くことがある、と言っていたという。
 彼が書くものを、彼が描く世界をもっと読んでみたかった。現在のこの世界を見たら、彼は何をどう描いただろうか。
 残念でならない。


 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。

 
 このタイトルでこの著者名の本を書店、あるいは図書館で見かけても、いつもの私ならまず手に取らなかった。
 本も人と同じ、出会いの妙、があるものなのだな、と思う。


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