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息をするように本を読む59 〜チェーホフ「悪戯(たわむれ)」〜

 この短編を知ったのは、あるラジオ番組がきっかけだった。
 俳優の中嶋朋子さんが、毎回ゲストをひとり迎えて、古今東西の文学作品をラジオドラマ仕立てで朗読してくれる番組。
 10年ほどの長きに渡って放送されていて毎週楽しみにしていたのだが、残念ながら昨年の秋に終了してしまった。

 このチェーホフの「悪戯」が放送されたのがいつ頃だったのかは忘れてしまったが、初めて聞いたとき、ドキドキして心に残り、radikoで何回か繰り返して聞いた。

 
 舞台はロシアのとある地方の街。
 季節は冬。
 登場人物は、主人公の青年「私」と、ナージャという少女、2人だけ。
 彼らは別に、恋人同士であるとか何か約束があるとかではなく、おそらく、幼なじみではないかと思われる。(後からわかるのだが、彼らの家は隣り合っているのだ)
 青年は冬が終わって春になったら、ペテルブルグに発つことが決まっていた。

 ある日のこと。
 2人は真っ白に雪が降り積もった丘の上にいる。彼らのそばには赤いラシャの張られた木のそり。目の前にはふもとまで続く長い長い雪のゲレンデ。
 
 ここをそりで滑り降りるか降りないか、で、2人は押し問答している。
 怖いから嫌だと尻込みしているナージャを青年は無理やり説得して、2人はそりに乗り込む。
 2人分の重さを乗せたそりは猛スピードでゲレンデを滑り降りた。
 真っ白な雪のスロープを滑るそりは雪を蹴散らして走る。氷のような冷たい空気が2人の顔を容赦なく打つ。耳元で風が鳴る。
 そりはまるで奈落の底へ落ちていくように速度を増しながら滑っていく。
 ナージャは恐怖と切るような冷たさに震えながら目を閉じてそりにしがみつき、ふもとに着くまでの、永遠に終わらないのではないかとも思われる時間を耐えていた。

 そのとき、ごうごうと唸る風音にまぎれて、ナージャは自分に呼びかけるある言葉を聞いた。

 息も絶え絶えになりながら、麓についたそりを降りたとき、ナージャは、もう2度とごめんだ、と思う。
 しかし、恐怖が収まってくると、さっき聞いた言葉が気になってきた。
 
 あの言葉は誰が言ったの?
 
 そう思いながら、おずおずと青年の顔を見る。青年は素知らぬ顔をしている。
 
 彼ではないなら、誰? それとも風の音を聞き違えたのかしら。

 ナージャはドキドキしながら、青年の顔をもう一度盗み見る。でも、確かめる勇気はない。
 もし、何のこと?なんて言われたら、恥ずかしくて死んでしまう。

 ナージャは心を決めて、青年に、もう一度そりに乗ろうと提案する。
 あんなに怖がっていたのに。
 青年は何も聞かずに承知して、2人は再びゲレンデを登り、またそりに乗って滑り降りた。

 さっき乗ったばかりなのだから分かっているはずなのだが、やはり怖い。
 そりにしがみつき震えているナージャの耳に、また風の音に紛れるようにあの言葉が聞こえた。

 それからナージャは何回もそりに乗った。
 そのたびにものすごく怖い思いをしながら。
 でも、彼女は、青年に何かを尋ねたり確かめたりすることは決してしなかった。

 やがて、雪が解けて春が来た。そり遊びはもう出来ない。
 翌々日にはペテルブルクに発つという日の夕方、青年が庭に出ると隣の家の庭にナージャが座っていた。
 青年が塀の隙間から見ていると、彼女はひたすら何かに耳をすませているようだ。その顔は悲しげで、頬には涙が光っている。
 やがて、まだ少し冷たさを含んだ春風が吹いてきた。立ち上がって風に手を伸ばすナージャ。
 そのとき、また奇跡が起きた。
 ナージャの頬はたちまち紅潮し、その瞳はキラキラと輝いた。色づいた空を見上げて微笑み、そっと吐息を洩らす。

 やがて、青年はペテルブルクに行き、2人はもう二度と会うことはなかった。

 物語はこれだけだ。何が起こるわけでもない。
 もし私が、子どもの頃にこの短編を読んだり聞いたりしていたら、これという感想は持てなかったかもしれない。
 
 ナージャは青年のことを愛していたのだろうか。おそらくそうではないだろう。ナージャは現実的に誰かを愛するにはまだ幼過ぎた。彼女は恋に恋をしていたのかもしれない。自分でもそれとは知らずに。
 青年はどうか。彼もナージャに恋をしていたわけではあるまい。彼は、春にペテルブルクに行ったらおそらくもう二度と戻ってこないことが分かっていた。

 この冬の出来事は、彼にはちょっとした思いつきの悪戯だったのかもしれない。
 なんて意地の悪い、たちの悪いことをするんだろう、と思われるだろうか。

 この後、何年かして、ナージャは親の薦める縁談でごく普通の男に嫁いで3人の子どもの母親となり、ごく平凡な生活を送る。
 
 ただ彼女は、胸の奥底に誰も知らない宝物を持っていた。
 それは、あの冬の不思議な、だからこそ一層甘美な思い出の宝石だ。
 それは年月を経ても色褪せることはない。いや、むしろ、ますます輝きを増していく。
 彼女は死ぬ直前まで、あの日のことを忘れないだろう。

 
 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
 
 著者のチェーホフは、写真で見る限りでは整った容貌の、いわゆる美男子だ。
 心を寄せる女性も結構いたのではないだろうか。
 しかし、彼自身は恋愛には悲観的であったと言われている。

 恋に恋する恋。
 彼に言わせれば、それこそが一番純粋で美しい恋だったのかもしれない。
 ナージャがあの冬の日に聞いた言葉は何だったのか。
 興味のある方は、ぜひ読んでみていただきたい。
 

 今のように恋愛についての情報が過剰なほど溢れた時代よりずっと前、もっと昔の物語。



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