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息をするように本を読む29 〜浅田次郎「シェエラザード」〜

 

 第二次世界大戦時、終戦のわずか4ヶ月前に台湾海峡でアメリカの潜水艦に砲撃されて沈没した日本の民間貨客船がある。
 その船の名は「阿波丸」。
 連合国側の要請で捕虜や民間人への救援物資輸送の任務を遂行中であり、船全体を白く塗装して両舷と煙突に緑地に大きな白い十字のマークをつけた、国際法でその安全航行を保証されていたはずの緑十字船だった。
 なぜ、その船が攻撃を受けたのか。
 日米間で、原因は潜水艦の誤認誤爆ということで決着しているが、疑惑が多々残る。
 
 「阿波丸」は、既に別の船でナホトカから日本に運びこまれていた救援物資を積んで1945年2月、門司港から東南アジア方面に向けて出航した。
 台湾、香港、サイゴン、スラバヤなどをまわって任務を終え、日本に向けて最後の寄港地シンガポールを出港したのは3月の末だった。
 当時、東南アジアの各地域にはまだ帰国できずにいた邦人がたくさんいた。
 日本は既に制海権も制空権も失っていたので、安全航行が保証された「阿波丸」は彼らにとって日本に無事に帰国できる最終手段だった。
 シンガポールでは乗船希望者が殺到し、最終的には女子どもを含む民間人、公務員、軍人合わせて2000名以上を乗せて「阿波丸」はシンガポールから日本に向かった。

 そして、4月1日の深夜、台湾海峡を航行中にアメリカの潜水艦クイン・フィッシュ号に3発の魚雷を撃ち込まれて沈没した。
 確認できた生存者はわずかにひとり。
 2000名以上の乗員乗客を乗せたまま、「阿波丸」は海に沈んだ。

 

「シェエラザード」は、この「阿波丸事件」を基にして書かれた小説である。

 物語に登場する悲劇の客船は「弥勒丸」という。平時なら横浜ーサンフランシスコの太平洋航路に就航するはずだった、排水量17,000tの美しい超豪華客船。
 完成と同時に戦争が始まってしまったため、一度も正規の就航ルートを航海することなく、船全体を真っ白に塗装され赤十字のマークを付けられた病院船として、息つく暇もなく南太平洋の島々の間を走りまわっていた。

 やがて戦局が厳しくなり、「弥勒丸」には新しい任務が課せられた。連合国の要請を受け、赤十字を緑十字に艤装して中立国のソ連から東南アジアへ、そこに拘留されている連合国側の捕虜たちへの救援物資を運ぶというものだった。

 ジュネーヴ条約に守られて絶対に攻撃されないはずだった緑十字船「弥勒丸」は、しかし、最終寄港地シンガポールで大勢の邦人を乗せたあと、台湾海峡沖でアメリカの潜水艦の魚雷を受けて沈んだ。終戦まであとわずか4ヶ月のことだった。


 終戦から50年あまり。
 元エリート銀行員、訳あって今は経済ヤクザの軽部順一は、台湾出身を名乗る謎の老人からとんでもない話を持ちかけられる。
 
 台湾沖に沈んだ「弥勒丸」を引き上げたい。軽部の所属する組織(早い話が日本有数の暴力団)のトップに繋ぎをとって欲しい。

 「弥勒丸」には、膨大な量の金塊が積まれていたという話があるらしい。
 そんな都市伝説めいた怪しげな依頼に軽部がためらっているうち、老人の周囲では関係者と思しき人物が次々と謎の死を遂げる。

 老人は何者か。彼の本当の目的は何なのか。
 「弥勒丸」はなぜ、撃沈されたのか。
 公式発表の通り、誤爆による不幸な事故なのか。
 「弥勒丸」は、乗員乗客以外に、いったい何を運んでいたのか。そしてそれは何のためだったのか。
 「弥勒丸」の周りには表には出せない謎がいくつも渦巻いている。

 軽部は、かつての恋人でジャーナリストの律子と共に「弥勒丸」とそれにまつわる人々のことを調べ始めた。

 物語の時系列は、軽部たちがいる現在と、「弥勒丸」にまつわる人々のいる過去を行き戻りつつ、進む。
 
 そしてしだいに、「弥勒丸」の抱えた秘密が明らかになっていき、終盤で過去と現在、全てが重なるのだ。

 乗組員たちは、皆、海の貴婦人「弥勒丸」のことを、敬意と愛情を込めて「レディ」あるいは「彼女」と呼んだ。
 「弥勒丸」はその呼び名にふさわしい、内装も設備も機関もずば抜けて美しく他の追随を許さない、まさに太平洋航路のエースだった。

 一度もパッセンジャーシップとしての正式の航海に出ていないにも関わらず、彼女は最後まで誇り高い「レディ」としての威容を失うことはなかった。
 それは、彼女を愛する人々全ての思いであり願いだった。

 非常にありふれた言い回しだが、この物語のヒロインは「弥勒丸」自身なのだ。

 小説のタイトル「シェエラザード」はアラビアンナイトに出てくる王妃の名前で、その名を冠した、ロシアの作曲家コルサコフの交響曲のタイトルだ。

 戦時中に撃沈された豪華客船を主題にした小説のタイトルがなぜ?と思われるかもしれないが、それは読んでいただけるとわかる。
 最後まで読めばきっと、このタイトル以外は考えられない、と思うだろう。


 「弥勒丸」のモデルになった「阿波丸」は戦後36年が過ぎた1980年、中国政府によって引き上げ調査が行われた。
 その際、回収された368体の遺骨と200余の遺品が日本に返還されたと言うことだ。
 
 
 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。

 そう遠くない昔、国家間の争いや思惑に翻弄された悲しみや無念が無数にあったこと、それを忘れないようにしたいと思う。

 
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