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息をするように本を読む73〜上橋菜穂子「鹿の王」全4巻〜

 生物の身体は、森や国に似ている。
 それは何億という小さな生命の集まり。その内部では常に新旧の生命が入れ替わり、お互いに影響し合いながら流れを作っている。
 流れはその生物の誕生で生まれ、死で終わる、わけではない。意識は消えても、その身体、有機物である肉体は解けて極限まで細分化され、また次世代の生命の基となる。

 上橋さんの書かれるファンタジー小説はいつも、時代を映しているように思えるのはなぜだろう。
 
 物語の舞台はアカファという架空の国。
 強大な軍事力を誇る大帝国、ツオルの属国。
 アカファの王はツオルに実権を譲渡して一領主となり、現在はツオルから派遣された王藩侯が政治を担っている。
 そしてアカファの一隅にはその優れた技術力と巧みな処世術でツオルとアカファ、2つの国の間を取り持ちつつ、自民族の存続を保っている領土を持たない国、オタワルの自治領がある。

 それぞれに全く異なる文化と考えを持った3つの国の絶妙なパワーバランスの上にあるアカファに、ある日恐ろしい厄災が降りかかる。
 250年前にオタワルで蔓延した伝説の伝染病、黒狼病だ。
 1000年の長きにわたる繁栄を誇っていたオタワルは、この病によって衰退した。
 
 事の始まりはアカファの岩塩採掘現場で監督員や奴隷労働者たちが、逃亡した2人を除いて全員、病死しているのが発見されたことだった。
 遺体には必ず獣の噛み跡があり、その死亡状況は古い資料に残された黒狼病のそれと恐ろしいほど酷似していた。
 
 ひとつの国を滅亡させた恐るべき疫病が250年の時を超えて再び蘇ったのはなぜか。
 
 この謎を追う物語の主人公は2人。
 
 ひとりはホッサルというオタワルの若き天才医術者。
 オタワルの医術は、私たちの現代医術によく似ていて、病は人の目には見えない微細な菌やウイルス(物語の中では病素と呼んでいる)によって引き起こされると、認識している。
 さまざまな薬効のある薬草のみならず動物の身体からも薬を作るし、病素を培養して弱毒化したものや病に感染した人や獣の血液から作る、感染および発症を予防するための薬(ワクチンとか血清と同じものと思われる)を作ることまで行っている。
 他方、この地域の支配者階級のツオル国では、清心教という穢れをことの外に忌み嫌う教えがかたく信仰されており、獣の身体から作った薬などを身体に入れることなど考えられない。
 ツオル国の医術は祭司医と言われる清心教の医師が行い、彼らはその教えに則った治療のみを施し、それで助からない場合は天の御心に粛々と従うのだ。
 人は人として生を受けたもの。獣の血を体内に入れるなど天の理に反く。たとえ、それによって生命を長らえたとして、生命は救われても魂は救われない。人の生は短く儚い。人はいずれ皆死ぬ。それを魂を穢してまで引き伸ばすことは彼らにとっては、正しいことではないのだ。
 このツオル国の生命や医術に対する考えが、全ての病を克服し如何なる手段を使っても患者の生命を救うことが至上だと考えているホッサルたちの前に立ち塞がる。
 ホッサルは、病に罹患しつつも死亡せずに岩塩採掘地から逃亡したと見られる2人の奴隷に黒狼病の治療法解明の鍵があると見て、その奴隷の行方を追う。
 
 もう1人はアカファの少数民族出身の元兵士、ヴァン。
 アカファがツオル国に征服される前、その交渉を少しでも有利に運ぶために死兵の役目を引き受けた「独角」と呼ばれる戦士団があり、妻子を失くして生きる意味を失っていたヴァンは、その頭として闘った。
 死に場所を探していた彼は皮肉なことに闘いで1人生き残り、奴隷としてアカファ岩塩採掘に送られる。
 そこで獣に噛まれて生死の境をさ迷うものの、ここでもまた九死に一生を得る。
 岩塩採掘場から逃亡した奴隷はこのヴァンだったのだ。
 その後、ヴァンは自身の身体や意識に今までなかったさまざまな感覚や反応を感じるようになる。これは病のせいなのか。
 彼はもうひとりの生き残り、ユナという幼い少女を連れ、自分たちに何が起こったのかその謎を解くために動き始める。
 
 恐ろしい伝染病の謎と、かつて栄華を誇り今は滅んだ国や民族、征服者と非征服者たち、それぞれの政治的な思惑が絡み、さらには人の生命とは、医療の限界とは、などなど、さまざまな要素が複雑に重なり、ドラマが分厚い。
 しかも、キャラクターがどれも秀逸だ。
 天才的頭脳と手技と高貴な血筋を持ち、傲岸不遜で生意気な若造、でも、何となく憎めないホッサル。
 この土地に生息する大型の鹿、飛鹿を巧みに操り、神出鬼没に戦場を駆け回って敵を恐れさせた勇猛な兵士、ヴァン。愛する家族を失い、死に場所を求めて闘い続けていたが死はいつも彼を避けて通る。彼の心の空洞を埋めたのは幼い孤児のユナ。
 あなたはどちらに心惹かれるだろうか。

 おまけに、この物語には彼ら2人を足しても足りないほどに魅力的な、優しく厳しく強い女性たちが何人も登場する。
 そしてタイトルの「鹿の王」の本当の意味とは何か。
 それもまた、読みどころだ。
 
 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
 
 この数年、人類は肉眼では見ることのできない小さな小さな微生物との闘いに明け暮れている。(ウイルスを微生物と分類するか否か、は論議の分かれるところらしいが)
 その極小の敵は知らぬ間に人間社会に忍びより、瞬く間に世界中に広まった。各国の叡智を尽くした対抗手段をまるで嘲笑うかのように次々とその様態を変化させ、網をすり抜ける。
 人類はその動きに翻弄され、今まで気づいていながら見ないふりをしてきた人間社会のさまざまな問題、弱点、矛盾までも突きつけられることになった。
 
 この地球上の生物は、どれとして自身単独で成り立っているものはない。全ては繋がっているのだ。
 生き物は、意識するしないに関わらず、他を生かし他に生かされている。
 この物語はそのことを教えてくれる。

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