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『クリスとみちる』 2話:異変


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 あの日から、三ヵ月。

 

 みちるは、一度も学校に行っていない。

 

 正確には、行けるんだけど、行けていない。

 

 みちるは朝、どうにも目が覚めなくなった。

 毎日決まって十時から十二時の間に意識が戻る。

 

 それまでは、うんともすんとも目覚めない。

 

 どれだけ早く寝ても、目が覚める時間はおんなじで、

 たくさん検査をしたけど、原因がわからない。


 体のどこにも病気がみつからず、

 最近ようやく心因性過眠症候群という名前が付いた。


 みちるは目が覚めると、それまで通りに顔を洗い、歯を磨き、トースト半分とゆで卵をひとつ食べる。お母さんが学校に電話している声を聞きながら。


 そうして友達がもってきてくれたノートと教科書を広げ、時間割の順にリビングで一人、勉強を始めるのだった。

 お母さんは最初驚いたけど、やめさせる理由はもちろんなく、その横で縫い物をしたり、自分のことをするようになった。


 いろんな人たちが、いろんなことを言った。


 心療内科の先生は、トラウマ対処の治療法と薬を少々。

 学校の先生たちは、午後からの登校願いに渋い顔でこう言った。

 

「勉強のサポートは全面的にします。ですが他の児童の手前、治るまで登校は遠慮していただけませんか」


 お母さんのママ友たちは、おすすめのカウンセラーやセレブ御用達の『高いけどいいらしい』病院情報など。


 毎晩、お父さんとお母さんは話をした。


 みちるは少しずつ、口数が減っていた。


「聞いたことには答えるんだけどね」

 お母さんは、元気なく笑った。


「学校の友達が来てくれるときは、前と変わらないんだけど」

「それなら大丈夫でしょうよ」

 缶ビールを飲みながらお父さんはきゅうりをつまんだ。


「それより、きみこそ大丈夫なの?」

「わたし?」


 少しやせたお母さんの顔を、お父さんはゆっくりと見つめた。


「そういえば、行きたいところがあるって言っていたのは?」

「ああ、それって・・・」

思わず声がうわずった。

「クリスのワークだ」


 すっかり、忘れていた。


 その頃のお母さんは、多分とてもとても疲れていた。


 肩の固さや、本当は頭がいつもうっすら痛いことにもまったく気づかないほど。


 なにげなく覗いたフェイスブックに、クリスティン・プライスの来日情報を見つけたのは先週のことだ。

 それは三年前に参加した、あるアメリカ人女性のワークショップ情報だった。


 今年も来るんだ、クリス。


 いまでも彼女が教えてくれたことを、明確に人に説明できる自信はない。


 したことといえば、ペアを組んだり、静かに自分の呼吸を感じたり。

 それでも三日間参加した後、自分の中に大きな空間ができたように感じ、呼吸が楽になった、あの感覚はいまでもありありと思い出せる。


 もう一度行ってみたい。あの場所に。

 でも、こんな状態では・・・


「行きたいなら、行きなさいよ」

 お父さんの言葉にハッとした。


「・・・無理じゃない? みちるもいるし」


「僕は休みなんだし、大丈夫でしょ」

 お父さんは枝豆をかじりながら、あっさりと言った。

「いいんだよ、行きたいんなら」


 ・・・行きたい。

 胸で一瞬、なにかがキラリとした。


「ありがとう。ちょっと問い合わせてみようかな」

「そうしなさいね」


 お父さんはにこっと笑った。

 お母さんも少し笑った。


〜続く

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