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どうしてこの子は学校に行けないのか?をつい考えてしまうお母さんへ

子どもが不登校になったとき「なにか自分に原因があったのか」とか「この子に何か問題があるのか?」と不安になったり、自分のことを責めたりはしただろうか?

もしそうなら、私は「原因も問題もないかもしれませんよ」と言おう。

たまたま不登校になったということに、そんなに深い意味を考えなくていい。


不登校という呼び名はそもそも、子どもが学校に行かなくなった時、大人がそう呼ぶことにしただけのものだ。
ただ単に「自分が所属している学校に行っていない」という状態を表しているだけの言葉でしか、ない。

そもそも、ある環境に合う・合わないは本人の個性によることが大きい。それは大人も同じだろう。

ただ、大人は働いてみてどうしても合わなかったとき、転職という選択肢が選べる。でも、子どもは…自分自身の居る環境を選べない。選択肢がないから、ある学校に合わなかったとき、「学校に行かない」ということしか選べない。

ある学校が合わない、ということが、社会に合わないとか、集団生活ができないとかに即つながるわけではない。たくさんあるうちの、ある集団の中に合わない、というだけなのだ。

環境を変えたとき、まるで変わるかもしれない。

大人でも、前の職場では全然うまく動けなかったし辛かったのに、転職してみたら「こんな楽しい仕事があるのか」と思うくらい生き生きと働ける・・・そういうことがあるはずだ。子どもだってそれは同じだ。

実際、日本の学校になじめなかった子が、ほかの国でホームステイしているうちみるみる活発で元気になっていった、という現象も起こるらしい(ちなみに元不登校児として、私はこれはかなりの納得感がある。ただ日本的な空気感や常識になじめない、という子も中にはいるのだ)


ある一つの場所に合わなかった。そのことに、深い意味があるわけではない。


何が悪かったとか、何か子どもに問題があるのかを考えることは、後ろ向きになって苦しくなるだけで、何も生まない。


そもそも・・・いまは30歳になる私だって、いまだに自分がなぜ不登校だったのかなんてわからないのだ。それっぽい理由を説明することはできるにしろ「私は自分の不登校の理由をこう考える」の域を出ない。
ちなみに「こうだったから、不登校になったのかもしれないなー」は、自分について新たな発見をするたびに変わっている。

わからないことの理由を考え続けるより、いま、貴重なこの時間をどう使うか?というのを考えることのほうが、ずっと大事だ。

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