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どんなことも、なかったことにはならない

「全部なかったことみてぇになんねぇか?」

9年前に津波で妻を亡くし、頑なに死亡届に判を捺せなかった新次(浅野忠信)が
ようやく決意をし判を捺す、今朝の朝ドラ『おかえり、モネ』の台詞。

「俺がこれにケリをつけてしまったら」

全部なかったことみたいにならないか?
もうみんな忘れてしまわないか?
全部過去になって、思い出すこともなくなってしまわないか?
思い出すら、存在すら、風化してしまわないか?

そんなことにはさせたくない。
だから最後まで頑固にしがみついてきた。認めるわけにはいかない。
なかったことにしないために、忘れさせないために、頑なでいることを選んできた。

…大切な誰かを亡くしたり、辛い経験をしたことのある人の中には
新次と同じように考えて選択し、
悲しみや苦しみを抱えて、立ち止まっている人は
とっても多いんじゃないか、と思うと
朝から涙が止まらなかった。

そして今も書きながら思い出して泣いている。
何だろう、前世でそんな経験でもしたのかな?笑

否、現実世界で自分自身もそういう経験をしたり
そういう経験をしている人たちを見てきたから、涙が止まらないんだなぁ。

でもだから解る、
それを選択して生きることの、なんとしんどいこと。
そこにしがみつき続けることの、なんと苦しいこと。

そして、
もちろんその台詞への答えもわかっている。

「なかったことになんかなるわけがない」

大丈夫なの。もしも、仮にあなたが忘れてしまっても
必ず覚えている人がいる。なかったことにはならない。
もしも、仮にあなたが忘れてしまっても
それはもう自分の一部になったということで恐れることではない。
そこで戦ったあなたがいることや、そこに生きていた人がいること、
泣いたり笑ったり苦しんだり怒ったりした記憶は
決してなかったことになんかはならない。決して。

それは辛い経験自体も、同じようになかったことにはならないということだから、
これからもしんどい現実が待っている場合もある。
誰かを亡くした経験とかいじめの経験とか、挫折とか。
綺麗に癒えて、なかったことになることは、残念だけど多分ない。

それでも、私たちは誰かと共に生きて、癒されながら
向き合って生きていく。

その、なんと尊いことか、と思う。

_________________

私は仕事柄「ストレスが溜まってますね」なんて話をよくする。
でも時々返される「ストレスのない人なんて、います?」

その通り。ストレスのない人なんていない。
悩みのない人なんて、いない。
苦悩や哀しみ、嘆き・・・
ないように見える人は、うまく付き合っているだけで
みんな色々ある。

目に見えないところでこそ、色んなことがある。

_________________

15年くらい前だから24-5歳の頃、仲良くなった子に
自分の生い立ちについて告白されたことがある。
それはとても辛い告白で、だから自分の父親を憎く思うと言って彼女は泣いた。
その時の私は、気が利いたことなんて何1つ言えなかった。
それで後日手紙を書いて、彼女に渡した。
「お父さんがしたことは私が代わりに覚えておく。
お父さんを憎む役割も私がする。だから、もうあなたは憎まなくていいよ。」
そんな内容を書いたことを覚えている。
ない頭で一生懸命考えて、どうしたら彼女が楽になるかなと考えた。
正解なんてわかんない、でも
それからしばらく経って彼女が
「あの後、私はもうお父さんのことで一度も泣いてないよ」
とこっそり教えてくれて、
あぁ良かったと思った。
彼女がきれいに忘れるわけもないし、憎さが消えてなくなることも多分ない。
そんなのはわかっている。
でも、なかったことにはならないけれど
誰かが知ってくれているということは、時に力になると思えた出来事だった。

それから去年、私の友人が
早産をして生後間も無く息子をなくした。
あまりにショックで絶句した。
でも教えられた、彼女のように辛い思いをしている人がこの世にたくさんいた。
なのに、同じ産後でも子どもがいるのといないのとでは社会の優しさが全然違う。
育休も取れず、傷ついたからだと心ですぐに仕事復帰をしなくちゃならない。
腫れ物のように扱われたり、気を遣われたり。
彼女たちもまた、なかったことにされていることが往々にしてあるという現実。
そして実際、仕事復帰をした友だちから送られてきた手紙に
「なかったことのようにされるのがつらい」とあって、泣いた。
彼女にとっては、幸せと不安をミックスした妊娠期を越えて腹を痛めて産んだ子が
今は胸の中にいなくても、息子がいるという事実はそこにあるのに
誰もその存在には触れず、なかったことになっているのがつらいって。
もちろん、触れて欲しくない時だってあるだろうけれど、
痛みを感じることで存在を確認する時もあり、
それもなくては存在まで消えてしまうようで、辛かったんだろうと想像する。
だから私は、息子くんの話を積極的にすることにした。
それが正解かなんてわかんないよ、でも優しく見守る人がいるならば
私みたいな人がいてもいいのかなって思っている。

私はと言えば、
10年前に会社の後輩を自死でなくした。
3.11の数ヶ月前のことだから、朝ドラとも時間がリンクする。
当時は自分に何もできなかったと責めてみたり、なんで死んだんだと彼女を責めてみたり
忘れないと決めることで彼女を弔っている気になってみたり
なかったことのように振る舞う会社の人に腹立ってみたり
なんだか色んな感情を味わった。
忘れてしまうことが罪な気がした。次に進むことが罪な気もした。
だけどやっぱり少しずつ思い出す時間が減っていって、新しい記憶と出会いは増えていって。

そして数年経ってあるとき、それでいいんだと思えた。
彼女のことが、今の私につながっていることは事実で
(彼女のことがあった翌年、私は仕事を辞めて鍼灸の道に進んだ)
その事実がある限り、忘れても決して、なかったことにはならないんだって。
たとえ、そのつながった道がまた枝分かれしても
道を辿ればすべて繋がっているんだから大丈夫なんだって。
彼女が死んだという哀しみもなくならないけれど
彼女が生きていたという事実もなかったことにはならない。

そうして、
自分が抱えている哀しみや苦しみから、少し手を放すこと。
それはとても怖いし勇気がいるけれど、自分のタイミングで時に必要なこと。

今日新次が、「なかったことになんかならない」と確認できて
受け入れることができて、それがたとえ画面越しのドラマの中の人だったとしても
なんだか同じように
私も改めて、自分の中の哀しみか何かをまた手放せたような気がしたし、
これは多かれ少なかれ、誰だって経験することだなぁと感じて、
胸が熱くなったので、ここに記録。

そしてね

「なかったことになんかならない」に続く、
だから大丈夫なんだよ。
だから幸せになっていいんだよ。

というこのセリフは時に

だから大丈夫なんだよ。
だから不調を手放していいんだよ。健康になっていいんだよ。

と言い換えることもできます。

臨床に出ていると出会う、
自分で治ることを拒んでいるひと。(自覚の有無は除いて)
その人たちにいつか、届くといいなぁ。

そんなことについても、またゆっくり書いてみようかな、と思います。

(…なんて、今日は全然“ズボラ”なノリじゃなくてすみません。へへ!)







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