見出し画像

擬洋風建築その1:UNKNOWN編。

未だにその正体が掴めない擬洋風建築について、お話しします。


松本城(長野県松本市)

私が初めて擬洋風建築を認識したのは、長野県松本市を訪れたとき。
現存十二天守巡りのために訪れた松本には、なんと国宝建築がふたつもあるとのこと!
松本城しか知らなかったのでビックリでしたが、松本城のすぐ北にそれはありました。

こちらが件の国宝指定・旧開智学校。明治6年築。
日本最古級の明治校舎であり、初見の私はスゴイなァと思いながらふらふらと眺めていたのですが・・・

展示内容に初見の文字がありました。「擬洋風建築」。
ここの説明書きでは「当時から洋風を倣った建築であると認識されていた」という情報くらいしか得られなかったので、気になってみていくつか本を探してみました。
しかし、なかなかどうして、擬洋風建築についての記述が全然見つからない。
ただの洋風建築に見えるんですが、洋風建築といったい何が違うんですかね・・・。

これは片山東熊による洋風建築の例・奈良国立博物館

ようやく見つけた日本建築様式133-136頁によると、以下のような記述が。
 
「明治初年から10年代にかけて、後に擬洋風建築(つまり西洋風建築の真似)と命名された建築群が、全国津々浦々で建築された。これらのほとんどは、地域の共同体を施主とした近世以来の大工棟梁、いわゆる在来技術者の手によるもので、彼らにおける西洋建築認識の端的な例として考えることができる。建築類型としては学校が特に多く、当時最新の公共建築に、最新の開化的モチーフを採用しようとしたのである。それらは西洋建築のオリジナルに対して、構造が在来であったり、あるいは漆喰塗りの大壁(柱梁を露出させない壁)仕上げにして西洋建築をまねるといった日本側の技術的特徴を併せもっていた。また唐突にバルコニーや塔屋を付加したりするのは、各植民地で発生したコロニアル様式の影響である。幕末からの居留地における外国人住居からの軽油だろう。これらの擬洋風は、これまで大工が見よう見まねで作った稚拙な西洋建築として作品的には一段低い評価がなされていた。しかしよく考えてみると、なぜ大工がよく知らない西洋の各様式を「見よう見まね」でそれなりに作りえたのかという問題自体が、大きな謎である。・・・」
 
「擬洋風建築の嚆矢と目される2代目清水喜助(1815-81)による外国人旅館の築地ホテル、あるいは同じ作者による後の国立第一銀行(海運橋三井組)では、和洋混在の装飾モチーフが大胆に採用されている。その混在は大工の構想力の限界ではなく、むしろ意図的に行われたらしい。設計のプロセスをみると、和洋双方のひながたが時には交換されつつ、パッチワークのように連結されていく過程がよくわかる。そのような意図的な混在は、柔軟に対応しうる日本建築の構造技術がまずあり、そして和洋双方の建築様式をひながたとして均質的に理解する土壌があってこそ可能だったのである。」
 
◇擬洋風建築に悲しき過去———


実践編:旧宇土郡役所と高梁基督教会

三角西港の石堤跡
天草五橋・天門橋と天城橋

そうやって擬洋風建築の存在を認識した後は、意外なほどどこに行っても目に付くようになってきました。
ここはなんとなく歩いていた熊本県宇城市は三角町、三角西港周辺。
明治初期に整備された三大築港のひとつは天草諸島の玄関口でもあり、複雑に入り組んだ美しい湾を形成しています。

そんな穏やかな港の一角にあるこちらの旧宇土郡役所は、明治35年築の擬洋風建築。
行政施設としてではありませんが、なんと現役の施設として稼働中であるということで、さらに驚き。
しかしそれはつまり、許可がない限りは内部を見ることはできないということも意味します。
周りをうろついてガン見していても不審者っぽいし・・・。
そそくさと帰りましょうね!

備中松山城
高梁市市内の城下町

もう少し実例を見てみないとなァと思いながら今日もふらふらと散歩。
岡山の県北にある山の町の下にやってきたぜ。
現存する唯一の山城である松山城と、その城下町が筆舌に尽くしがたい旅情であって、美しい。
やったぜ。

そんな街中で偶然出会った高梁基督教会、こちらは明治22年に建てられた擬洋風建築。
特にこの教会堂は岡山県内では最古、全国的にみてもプロテスタントとしては第二の歴史を持つ建築物であり、歴史的にも非常に重要な建物であるとのこと。
中に入らせてもらえたのはありがたい!
和の雰囲気を醸し出す木造建築であることは容易に理解できるとともに、それでいて外装の色味や鐘楼(昭和28年の増築)、車寄せなどといった個別パーツは実に洋風です。
美しく、心惹かれたのは間違いないのですが、なんとも呑み込めない感想を抱きました。

やば・・・やば・・・わかんないね・・・


考察編:旧済生館本館と旧五十嵐歯科医院

まだまだ分からない!ということで続いてやって来たのは山形県山形市。
この日はやたらと寒い日であり、駅から目的地まで少し歩くだけでも鼻水が垂れてきた・・・!
山形城跡の広い濠の水が凍っててマジ狂い。
蕎麦で有名なまちですし、とりあえず蕎麦を食べて温まる。
ああ^~うめえなぁ!

こちら独特な色合いの擬洋風建築は山形市立郷土館 、旧済生館本館。明治11年竣工。
色味だけでなく、正面の塔に加え円形の構造、それに和瓦にも気が惹かれてしまう。
現在では病院としての機能はなく、建築物自身の希少性も併せて地域の博物館をやっているようです。
どうして病院に行かずにこんな場所に来たの?

館内は撮影NGの箇所が多かったのであまり撮れてはいませんが、内装は実に古めかしい洋装の病院といった雰囲気。
中央は十四角形のドーナツ型というよくわからない円形の回廊になっており、8つの部屋に分かれています。
時の県令・三島通庸(任・明9~15年)の手腕で県下に大量に建設されたものの、山形市内は幾度も大火に見舞われたことから、現存するのはこの済生館本館のみになっているとのこと。
 
さて、展示内容を見て思い出したのですが、私は初めて来たにもかかわらず、この山形の景色、どこかで見たことがあります。
そう、高橋由一による油彩図です。
あ~!というア☆ハ体験が心地よかった(小並感)

蒲原宿は比較的古いまち並みの雰囲気がよく残る
旅籠和泉屋(静岡県静岡市)

最後に考察するのは、旧東海道の宿場町・蒲原宿付近から。
東海道新幹線、東海道線、国道1号東海道、E1東名高速道路、そして江戸時代に整備された東海道が複雑に交差しながら駿府へと続いていくこの一帯は、穏やかな港町といった雰囲気。
旧東海道徒歩完全制覇の最中に訪れたためによくよく実感したのですが、ここ蒲原宿周辺は、比較的往時のまち並みがよく残る。
現代の国道の開発により完全に面影が消えた場所も多い中、ここで目に映る風景は、道の広さもそのままで、文化財級の建物もあるということで、観光にも適していると考えられる。


しゃあっ 最後の擬・洋風建築!
ここ旧五十嵐歯科医院は、町家を三度に渡り改装して大正3年に開業。
管理人さんは擬洋風建築だと仰っていたが、もしかしたら和洋折衷型の洋風建築かもしれない、そんな建築物。
上記の建築たちと比べて、あまり擬洋風っぽくないというか・・・。
薄い碧色が青い空に何とも映える洋風の観ですが、畳の部屋割りや中庭は実に和風建築。
木造建築のかほりがとても落ち着く。

極めつけはこの美しき襖絵と欄間。
欄間に関してさらに言えば、私の地元である富山県の砺波っぽい。
あくまでも貴賓室であるからという理由で設けたのかもしれませんが、外見からは想像もつかない純和室の存在は驚き。
窓ガラスもなんだか特殊なかんじで、歪んだ手作り感覚がある。
ウーン、この空間が心地よすぎて、学問的な内容がどんどん頭から離れていくなァ・・・


おわりに

旧水海道小学校本館(茨城県水戸市)

以上、わからない擬洋風建築を、わかりたいと思って考え直してみました。
こうしてじっくり振り返ってみても未だによくわからない。
現時点で「これだ!」という擬洋風建築のポイントを敢えて挙げるとすれば、以下の要素でしょうか。
*個人的経験と資料に基づく独自評価です。

日本でふつうにみられる瓦の分類
旧済生館の展示を参考にした擬洋風建築の分類

①江戸末期~大正初期の建築であること
 ←Wikipediaでは明治22年を擬洋風建築の終期としている
②外見は一見して洋風建築であること
 ←エンタブラチュア、車寄、ベランダ、望楼・鐘楼、色付きの壁など
③木造建築であって和瓦を用いること
 ←スレート屋根も見られるが保存・改修工事後の可能性もアリ
 
これも断定的な評価ではく、全然自信がない。
何はともあれ、致命的に文献資料への探索が足りていないのが悔しい。
全国に擬洋風建築は分布しているので・・・さらに訪問して、現地でさまざまに情報収集しつつ、新たな知見を深めていきたいですね!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?