「鬱陶しい発信者」にならないために

僕は「発信」が好きだ。

これは昔からの性分だ。
今まで、スピーチコンテストや和太鼓、劇団、合唱のソロパート、アカペラなど、人前に出て自分を表現するものに積極的に取り組んできた。

また、自分の考えを率直に示すことも好きだ。就活はずっとそんなスタイルで望んできた。このnoteもそうだ。

人前に立って話したり演じたりするのは、苦にならないし緊張もしない。
自分が得た知識、知見、発見は惜しみなく人に伝えたい。

重なる部分がある人ならわかるかもだが、このパーソナリティに対しては、しばしばネガティブな視線が向けられる。「うざい」「目立ちたがり」「かっこつけ」「よくそんな恥ずかしいことできるね」…今まで何度言われてきたかわからない。

今までこういう言葉に対しては、とりあえず耳を貸したとしても、すぐに受け流すスタイルでやってきた。しかし、あることがきっかけとなり、この批判を一旦真剣に受け止めてみたいなと考え始めた。

なんで発信って鬱陶しがられるんだろうか?

「良い発信」と「悪い発信」の違いって何なんだろうか?

あるテレビ企画を見て感じたこと

この記事は、あるテレビ企画を見ていた時のことがきっかけになって書いたものである。

その企画は、大勢の一般の人々がある歌手の曲を歌って動画に収め、歌手本人の歌と一緒に放送するというものだった(わかる人にはわかるはず)。まさに「発信」の権化のような企画である。

僕はその歌手のことは好きだったし、一般の方々の決して上手とは言えない歌が嫌なわけでもなかった。
しかし、あくまで個人的にだが、僕にはこの企画がどうにも性に合わなかった。「発信を鬱陶しがっていた」のだ。

受け取れないメッセージ

何故性に合わなかったのか、僕なりに考えてみた結論。それは、「何を受け取ればいいのかわからなくて戸惑ったから」

例えば歌手は、それぞれの気持ちや考え、志を歌に込めて僕らに届けてくれる。
今回の企画において、自らの曲を提供し、出演を承諾したその歌手も、おそらく何か志があっての行動だろう。

また、この企画を立てた人たちにも何か思うところがあったのだろうと思う。ライブの機会がなく、みんなで歌を楽しむ場が失われる中で、なにかやれることはないか。そんな風に考えたのかもしれない。

でも、この企画に参加した大勢の人々は、一体何を僕らに届けたいんだろう。少なくとも歌手や企画者たちが思い描く「うたのちから」に吸い寄せられてたとは、僕はとてもじゃないけど思えなかった。

彼らの根底にあるのは、テレビに出たい、または子供をテレビに出したいという自己主張。いわゆる「自己顕示欲」だ。それ自体は何も悪いことではない。ただ、企画者たちの想いと同じく、「ひとつの音楽を作りたい」「歌を通して感動を届けたい」などと考えている人は、実は極めて少数派なんじゃないだろうか。

すなわち、「参加者と企画者の間の思惑のズレにより、参加者の自己顕示欲がより浮き彫りになることで、受け取るべき想いを見失ってしまうから」

これが僕が某テレビ企画が苦手な理由である。

「受信者」を基点に考える

で。なんでこんな話をしたかというと、「あれ?これ僕も同じことやってね?」と盛大にブーメランが突き刺さったからである。

まずアカペラ。
僕はアカペラをやってる時に「何かを届けたい」と思って演奏していただろうか。
僕を含め、これができていないグループが圧倒的多数だから、アカペラはしばしば「寒さ」を醸し出し、内輪ノリなどと揶揄されるのではなかろうか。
受け取るべき想いを見失ってしまうのだ。

アカペラの全国大会で優勝したりするグループに共通しているのは、「おもてなし」の心だと思っている。演奏を聴いている人々にどんな感情を抱いてもらいたいのか、そのために自分ができることは何なのか、きっちり頭の中に言語化して演奏していると感じる。
演奏技術やコンセプトなどといったものだけで人を感動させられるなら誰も苦労はしていない。勝つために、人を感動させるためになによりも必要なのは、「相手に届ける」という意識であり姿勢だということだ。

そして、こうやってnoteを書いていること。
何かを発信する以上、誰かに見てもらいたいという想いはもちろんある。
しかし、それにはやっぱり読み手の感情を想像することが必要だなと思う。最近いろんなnoteや本を読んでいるけれど、「自分の成功を語りたいだけの啓発本」とか、とにかく頭に入ってこない。試しに買ってみたのをとても後悔した。

「受信者」を基点に考える。これが出来ていないコンテンツはやはり鬱陶しいし、頭に入ってこないし、心にも響かないのだ。

相手のミットに投げ込むことが大切

改めて言うが、自分は発信そのものは決して悪いことではないと思っている。目立つこと、自らを売り込むこと、自分はここにいると叫ぶこと。どれも情報社会の現代では大きな力を発揮する。

でも、ただ自分の感情を撒き散らしているだけでは意味がない。それは自己完結しているのと変わらない。大切なのは相手の構えたミットに向かってきっちり投げ込むことだ。

これは結構難しい。発信する人々にとって、見てくれの気持ちはどうしても抑えがたい。つい主張が先に立ってしまうのだ。

でもそこはグッと堪えて、「鬱陶しい発信者」にならないために。発信によって誰かの思考や行動によい影響を与えられるように。

受信者基点のマインドを忘れずに、これからも発信を続けていきたいなと思いましたとさ。

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